『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第15話 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ…

『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第15話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
登場人物一覧>> 第1話>>無料 第2話>>無料 第3話>>※有料 第4話>>※有料 第5話>>無料 第6話>>無料 第7話>>※有料 第8話>>無料 第9話>>無料 第10話>>※有料 第11話>>無料 第12話>>無料 第13話>>※有料 第14話>>無料


 

第15話

 フィギュアスケーターの条件

 特別コーチを務める福山凌太は、星野翔平と一緒のタクシーの後部座席に並び、全日本の会場へ向かっていた。どこかで道路工事をしている影響で、なかなか車は進まなかった。信号待ちの車内から見えた風景は灰色で、寒波が残った空は曇っていた。街路樹には冬でも緑の彩りを感じさせる木々が植えられていたが、寂しい印象だった。
 
 隣の翔平は手にしたタブレットで、ショートプログラム第1滑走である宇良悟の演技に見入っていた。ジャンプのたび、小さく声を出し、同じように体を動かす。他人の演技をそこまで熱心に見守れる人のよさが、翔平の翔平足る所以だ。
 
「凌太、宇良君がジャンプ3本とも成功だよ。全体的にスピード感があって、氷をよく押せていた。これは高得点出るぞ」

 翔平は、自分のことのように喜んだ。

「そいつはよかったのう」

「宇良君のおばあちゃんも、喜んでいるはずだよ」

「翔平のファンじゃったら、お前が優勝でもした方が喜ぶのかもしれんぞ?」

 凌太はそうたしなめた。

「孫の活躍だぞ? うれしいよ」

「そんなもんかのう」

「凌太! 86.55点だって! 1位だよ」

 翔平が嬉々として言った。

「そりゃそうじゃろう。1番目じゃけ」

 凌太は呆れたように言いながら、得点数を考えると、表彰台も狙えることに驚いた。翔平の走路に入って転倒事故を起こした時、そんな選手には少しも見えなかった。ちょっとしたきっかけで、積み上げてきた努力が演技に転換されたのか。ジャンプがなかなか身につかず、それが自信のなさにつながって、プログラムを演じきれていなかったが、流した汗は彼を裏切らなかったのだ。

 そう考えると、凌太は羨ましくなった。

「今大会は面白くなりそう」

 翔平は目を輝かせて言う。

 凌太は、まじまじと横顔を見た。翔平が「何? なんかついてる?」と言うので、「何もついとらん」と素っ気なく答え、「お人好しって思っただけ」と反対の窓の方を見ながら小声で付け加えた。翔平は聞こえなかったのか、少し頭をかしげ、再びタブレットで他の選手の演技に見入っていた。

 凌太はコーチとして、ジャンプの感覚をすべて翔平に伝授した。かつて富美也のコーチをやったとき、どう伝えるべきか、という過程はクリアしていた。ジャンプがうまくいかないときの修正法は、ほとんど本能的に心得ている。自分に足りなかったのは反復練習の圧倒的な少なさで、乱れを一時的に修復させても、本番では乱れが戻ってしまったのだ。

 しかし、翔平は膨大な練習量にジャンプが支えられている。技としてすでに定着しているだけに、常に基本に戻るだけ。きっかけを与えるだけで、教えることなどない。

 今回、翔平が表彰台に乗る算段はついていた。あとは5年ぶりの全日本で、不測の事態に対処できるか。翔平本人は、勝負に執着しているようには見えない。きれいごとに聞こえるだろうが、「スケートが好き」というエンジンだけで爆走できる。
 
 それが、星野翔平というフィギュアスケーターの本性なのだ。

 会場にタクシーが到着し、翔平が慌ててタブレットをケースにしまう隣で、凌太が料金の精算を済ませる。車を出たところで、富美也がいた。同じグループだけに、ちょうど同じ時間にタクシーで到着したようだった。

「こんちはっす」

 富美也が凌太に向かって挨拶した。ギリギリの敬語で、含んだところがあるのだろう。凌太が富美也ではなく、翔平のコーチを引き受けたことが不満なのだ。

「調子いいらしいな」

 凌太が声を掛ける。

「フツーっす。凌太さんは元気っすか?」

「俺もフツー」

 凌太はそう言って笑った。富美也は不満そうに見えた。すべてが自分中心でないと許せないタイプで、怒りが収まらない。その独善的な執着心こそ、富美也の最大の才能なのだが、彼自身はそう言われるのが不本意だという。まるで、実力がないと言われているような気分になるそうだ。

 昔、富美也が凌太によく言っていた。

「凌太さんは、いつもクールに優勝していたじゃないですか? 俺も、あの感じがいいんすよ」

 しかし凌太自身は、それが限界だったことを知っていた。本当の勝負の場で、モノを言うのは「スケートへの熱量」である。それを日常的に放出しながら、練習を繰り返し、試合に挑む選手は巨大な存在になれる。びりびりと電流を放って、近づけないほどの覇気だ。

 翔平にも、富美也にもあって、凌太はそれがなかった。

「俺は誰にも負けないっすよ。自分のスケートは無敵だから」

 富美也は凌太に向かって言って、必ず後悔させてやる、という敵意を込めてきた。

「お前は相変わらず、いつも戦闘モード全開だな。疲れるから加減してくれよ」

 凌太はいなすように言った。

「凌太さんも、そういうところ変わらないっすね。じゃ、あとはリンクで」

 富美也はそう言って受付に向かった。

「頑張れ」

 凌太はその背中に声を掛けたが、返事はなかった。隣では翔平が目を丸くしていた。

「アップしよっか」

 翔平が言う。

「だな」

 凌太が同意した。すでに第2グループの戦いが火ぶたを切っていた。

「翔平さん!」

 朗らかな声が響いた。演技が終わって、クールダウンを終えた宇良が受付の向こうから出てきた。

「演技見たぞ! すごかったじゃないか?」

 翔平が声を掛けた。

「いや、まぐれです。できすぎだと思います。一生分の運を使いきったかもしれません」

 宇良はそう言いながらも、うれしさを隠せなかった。

「今までの練習が報われたんだよ」

 翔平は言ったが、それは凌太も同じ意見だった。複数のジャンプを偶然では跳べない。

「ばあちゃんからも、メッセージのスタンプがきました」

 宇良はそう言って、スマホの画面を見せた。おめでとう、を意味するパンダのスタンプだった。文字を打つのが苦手な祖母に、操作の手ほどきをしたのだという。

「よかったな。次のフリーは最終グループに入るだろうし、そこで頑張ったら、表彰台も夢じゃない」

 翔平が言う。

「いやいや、マジで最終グループとか緊張します。でも、翔平さんと滑れるなら、一生の記念になるかも」

「僕はまだ決まってない。勝負はわからないよ。大失敗するかもしれないし」

「本当は翔平さんの演技もここで見たいんですが、帰ってホテルのテレビで観ます。『すぐホテルに戻って、体をほぐしてゆっくりし、フリーに備えろ』ってコーチから言われているんで、今日はこれから帰ります」

「ゆっくり休んで」

 翔平が返した。

「翔平、そろそろ俺たちも準備するぞ」

 凌太が言って、それぞれが散った。

 建物の中にあるウォームアップスペースで、翔平はじっくりと体をほぐしていた。いつもどおり、右膝は入念にケア。実戦を2大会やり遂げたことで、体は競技者時代に戻っていた。

 ウォームアップメニューはルーティンで、黙々と行うだけだ。
 
 凌太が指示することは何もない。実際、翔平はワイヤレスイヤホンをつけてアップしているから、自分の世界に集中している。そもそも、フィギュアという競技は、リンクにたった一人立って、2分40秒、あるいは4分という決められた時間内の一度の演技で、全員の注目を集めることを受け入れる資質が求められる。

 その点、サッカーや野球、バスケットボールやホッケーなどの集団スポーツとは違う。陸上のトラック競技やマラソンは個人スポーツで記録を争うが、同時に他の選手とも競う。走り高跳びは一人でバーに向かって挑むが、同じ競技場で複数のフィールド競技も行われており、同じ高さに3回までトライできる。柔道、レスリング、卓球、バドミントン、フェンシング、そしてスケート競技でもスピードスケートなど、すべて対決方式だ。
 
 フィギュアスケートは、孤高の精神が必要とされる。誰かに頼ることはできないし、誰かと同時に競うわけでもない。誰かのせいにしたりする人間は向いていないだろう。たった一人、荒野に立つ気概が不可欠だ。
 
 翔平は縄跳びで心拍数を上げていた。息遣いが荒くなる。心臓が全身に血液を行き渡らせていった。

「こんなもんかな」

 翔平が縄跳びを終えて言う。

「やりすぎは禁物。ここに来る前に勝負は決まっとる」

 凌太は言った。
 
「凌太らしいな。凡人っていうのは最後の最後まで気になるもんだよ」

「何を昔のことを。本当の天才は翔平じゃったって、もうわかっとるじゃろ」

「僕はコツコツやっただけ」

「それを」

 天才だという、と凌太は言おうと思ったが、不毛な会話をやめた。特別コーチについて、思い知らされたことがあった。世界のトップに君臨するには、ここまで自分を追い込まないとならないのか。もちろん、その姿は富美也のコーチ時代も見てきたが、ケガで思うようにならない体を、目を血走らせて動かす様子は尊敬に値した。粉骨砕身、決してあきらめない。

 凌太は、ため息をついた。決戦の日にもかかわらず、情念が体の中でのたうち回って、たくさんの言葉を紡ぎ出している。そんなものに何の意味もない。まったく自分らしくないことだ。

「ちゃっちゃとトップに立って、全員に思い知らせてやれ。ここに星野翔平ありって」

 凌太は雑念を振り払いたくて言った。

「えー、そんな簡単に」

 翔平は顔の汗をタオルで拭きながら返した。

「いーや、俺はそのためにお前のコーチになったんじゃ。俺のために絶対に勝ってもらわんとな」

「まあ、そうだけど」

 翔平はもじもじした様子だ。

「人生の正解なんて、くそくらえじゃ。ほうでもな、俺はお前に賭けたんじゃ。それが正解でええ」

「おう」

「星野翔平だけの演技、これから見せてくれよ」

「ほうじゃな」

 翔平も真っ直ぐに視線を返した。

「ああ、氷の導きがあらんことを」

「うん」

 臨戦態勢は整った。