実に17シーズンにわたり平均20得点をマークしたカール・マローン photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載12:カール・マローン プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても…


実に17シーズンにわたり平均20得点をマークしたカール・マローン

 photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載12:カール・マローン

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第12回は、その得点力でパワーフォワードの概念を変え、ユタ・ジャズで一時代を築いたカール・マローンを紹介する。

過去の連載一覧はコチラ〉〉〉

【PFの概念を変えた高い得点力】

 パワーフォワード(PF)というポジションは、1980年代半ばまでディフェンスやリバウンドでの貢献度が高い縁の下の力持ち的な選手が大半だった。しかし、カール・マローンはチャールズ・バークリー(元フェニックス・サンズ)とともに、得点源のパワーフォワードという新たな概念を作った選手だ。

 NBAの元選手、コーチ、解説者たちは、ティム・ダンカン(元サンアントニオ・スパーズ)が史上最高のパワーフォワードと位置づける意見が多い。しかし、1985−86シーズンから19年間のNBAキャリアで史上3位となる通算3万6928得点、17シーズンで1試合平均20得点以上という実績を積み重ねてきたことから、マローンがパワーフォワードの固定概念を変えた選手と言っていいだろう。

 1963年、アメリカ南部にあるルイジアナ州サマーフィールド出身のマローンは、9人兄弟の末っ子として誕生。3歳の時に父親が蒸発し、母のシャーリーさんに育てられながら、子どものころから農場の手伝いなどをして家族を助けていた。

 身体能力の高い少年に成長していたマローンは、バスケットボール選手としてサマーフィールド高校時代には3年連続で州のチャンピオンシップ獲得に貢献。NCAA(全米大学体育協会)の強豪校のひとつ、アーカンソー大から勧誘されたが、自宅から近いルイジアナ工科大に進学する。学業成績を理由に1年生時は試合に出られなかったが、2年生になると1試合平均20.9得点、10.3リバウンドを記録。4年生の時には29勝3敗という好成績でチーム史上初のNCAAトーナメント出場、スウィート16(3回戦)に進出する原動力になった。

 マローンの代名詞と言える「メールマン」というニックネームは、配達員が毎日欠かさず郵便物を配達するのと同じように、マローンのコート上における信頼できるパフォーマンスに準(なぞら)えて大学時代に付けられたもの。NBA選手になってからもマローンの得点力とリバウンド力、そして試合への全体的な貢献が、このニックネームを強固なものにし、認知度も高まったのである。

 ルイジアナ工科大でのキャリアが終わったあとに迎えた1985年のNBAドラフト、マローンは1巡目13位でユタ・ジャズから指名された。マローン自身は8位でダラス・マーベリックスから指名されると思っていたものの、「ジャズが私を指名したときはとても興奮した。ユタについてはあまり知なかったけど、自分の実力を証明するチャンスがあることはわかっていた」とコメント。筋骨隆々の身体と運動能力の高さを武器に、1年目から1試合平均14.9得点、8.9リバウンドを記録してオールルーキー・ファーストチームに選出されるなど、NBAで通用することを証明した。

【ストックトンとNBA屈指のコンビで活躍】


1993年、地元で開催されたオールスターでは盟友ストックトン(右)とともにMVPを獲得

 photo by Getty Images

 マローンは3年目以降、司令塔でNBA史上最多アシスト数の記録を持つジョン・ストックトンとのコンビでオフェンスを牽引。このコンビによるピック&ロールは止めるのが非常に難しく、ジャズが15シーズン連続でプレーオフ進出を果たす強豪であり続ける要因となっていく。1993年にジャズの地元ソルトレイクシティで行なわれたオールスターゲームでは、ストックトンと一緒にMVPに選出された。

 NBAのスーパースターとなったマローンは、1992年のバルセロナ五輪で世界中のスポーツファンを魅了したドリームチームのメンバーとして、金メダルを獲得。4年後のアトランタ五輪でもアメリカの2連覇に貢献した。1997年のオールスターウィークエンドではNBAの偉大な選手50人に選ばれ、1996−97シーズンにはレギュラーシーズンのMVPを受賞している。

「私は長い間このリーグにおり、ようやくここまで到達できたことは特別なことだ。しかし、終わりではない。最終的な目標はチャンピオンシップを勝ち取ることなんだ」

 数々の功績を残したマローンはこう語っていたが、NBAの頂点に立つという夢を叶えることはできなかった。1992年、1994年、1996年と3度カンファレンス・ファイナルで敗れていたジャズは、1997年にヒューストン・ロケッツを倒して初のNBAファイナル進出を果たした。しかし、マイケル・ジョーダンを擁するシカゴ・ブルズに経験の差を見せつけられ、2勝4敗で優勝を手にすることができなかった。

 翌年もウエスタン・カンファレンスを勝ち上がってきたジャズは、再びブルズとNBAファイナルで対戦。マローンはデニス・ロッドマン相手に激しい攻防を繰り広げ、王手をかけられていた敵地での第5戦で39得点の大爆発。残り2試合をホームで戦えることになったジャズは、1勝3敗から巻き返しての初優勝に希望の光が灯ったかと思われた。

 地元ソルトレイクシティでの第6戦は、リードが変わること8回、同点が18回という激戦に。マローンは31得点とチームを牽引し、第4クォーター残り42秒にストックトンが勝ち越しとなる3Pショットをアシストしていた。しかし、1点リードで迎えた残り19秒、ジャズは得点できれば勝利に大きく前進できたのだが、ポストアップでボールを持っていたマローンは、背後からジョーダンにスティールされる痛恨のターンオーバー。残り5秒でジョーダンに逆転のジャンプショットを決められてしまう。「あんな負け方をするのはつらい。特に2年連続だと。全力を尽くしたけど、ボールが思いどおりに弾まないこともある」と語ったマローンとジャズのNBA初制覇の夢は、砕かれたのである。

【NBA王座を手にできずも完全燃焼】

 2003年にストックトンが現役を引退すると、フリーエージェントとなっていたマローンはロサンゼルス・レイカーズと契約。2000年から3連覇を経験したシャキール・オニールとコービー・ブライアントに加え、マローン同様NBAタイトルに縁のないスターガードのゲーリー・ペイトンを擁するチームは2003―04シーズン、文句なしの優勝候補だった。

 サンアントニオ・スパーズの2連覇を阻止し、ミネソタ・ティンバーウルブズを倒したレイカーズは、NBAファイナルでデトロイト・ピストンズと対戦。解説者やメディアの多くはレイカーズが圧倒的に有利と予想していたが、強固なディフェンスとチームとしての完成度が高いピストンズに1勝4敗という結果に終わった。

「私はチャンピオンシップリングを勝ち取るためにロサンゼルスへ行き、あと少しで手にできるところだったが、結局手に入らなかった。そういうこともある。いつもおとぎ話のような結末になるわけではない」と語ったマローンは、第3戦で右ひざを痛めてしまい、第5戦は私服姿でピストンズの優勝を見届けることになった。

 2004年の夏に右ひざを手術したマローンは、現役続行に意欲を示していた。ニューヨーク・ニックスやスパーズと契約するという憶測も出たが、2005年2月13日に引退を発表。2006年3月23日、マローンの背番号32はジャズの永久欠番となり、本拠地のデルタセンターには、マローンの功績を称えて銅像が建てられている。

「私はすばらしいキャリアを積んできたし、自分が成し遂げたことに誇りを持っている。しかし、もう前に進んで家族と過ごす時間だ。後悔はない。私は全力を尽くしてこのゲームに臨んできたし、全力を尽くしたという気持ちで去ることができる。すばらしい旅だったが、人生の次の章を始める時が来たのだ」

 オフコートでのマローンは、大型トレーラーの運転、狩猟やフィッシングが好きだったことで有名。1998年のNBAファイナル後にはプロレスのタッグマッチでブルズの異端児、デニス・ロッドマンと対戦し、ペイパービューの購入者数が58万を数えた。

現役引退後はユタ州とルイジアナ州で自動車販売店を経営するなど、実業家としてのキャリアを送っている。

【Profile】カール・マローン(Karl Malone)/1963年7月24日生まれ、アメリカ・ルイジアナ州出身。1985年NBAドラフト1巡目13位指名。
●NBA所属歴:ユタ・ジャズ(1985-86〜2002-03)―ロサンゼルス・レイカーズ(2003-04)
●NBAファイナル進出3回(1997、98、2004)/シーズンMVP2回(1997、99)/オールNBAファーストチーム11回(1989〜99)/オールスターMVP2回(1989、93)
●五輪代表歴:1992年バルセロナ五輪(優勝)、1996年アトランタ五輪(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)