トニー・パーカーは常勝スパーズ、フランス代表として多くの功績を残した photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載11:トニー・パーカー プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超え…


トニー・パーカーは常勝スパーズ、フランス代表として多くの功績を残した

 photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載11:トニー・パーカー

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第11回は、フランス代表として、NBAの王朝チームの主軸として大きな成功を収めたトニー・パーカーを紹介する。

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【4度のNBA制覇チームの司令塔に】

 パリオリンピック開催国フランス代表には、ルディ・ゴベア(ミネソタ・ティンバーウルブズ)やニコラ・バトゥーム(ロサンゼルス・クリッパーズ)といったベテラン陣、昨季NBAで新人王に輝いたビクター・ウェンバンヤマ(サンアントニオ・スパーズ)らが名を連ね、今大会で銀メダルを手にした。

 今回紹介するのは、そのフランス代表チームで長年プレーし、ヨーロッパ出身のポイントガード(PG)としてNBAでも屈指の実績を残してきたトニー・パーカーだ。

 パーカーは1982年5月17日、元プロバスケットボール選手の父パーカー・シニア、オランダでモデルをしていた母パメラ・ファイアストーンのもと、ベルギーのブルージュで生誕。ふたりの弟(TJ、ピエール)も生まれ、フランスで育ったパーカーは、当初サッカーを楽しんでいた。

 そんなパーカーをバスケットボールへ突き動かしたのは、1992年のバルセロナオリンピックに出場して世界を席巻したアメリカ代表だった。「あれがヨーロッパで強烈なインパクトを与えた。あのドリームチームに(自分は)影響を受けたんだ」とパーカー。当時、マイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れていたという。

 その後、15歳から国立エリート養成所(INSEP)で経験を積むと、19歳の時にアメリカ・シカゴでサンアントニオ・スパーズのワークアウトへ挑戦。1度目は失敗に終わるも、RC・ビュフォードGM(ジェネラルマネージャー/当時)がグレッグ・ポポビッチHC(ヘッドコーチ)を説得したことで2度目のワークアウトでアピールに成功した。

 結局、10チームと計11度のワークアウトをこなしたパーカーは、2001年のドラフト1巡目28位でスパーズから指名されて念願のNBA入り。2001-02シーズンの開幕5戦目から先発に抜擢され、平均9.2得点、4.3アシスト、1.2スティールを残してオールルーキーファーストチームに選出された。

 身長188cm、体重84kgの先発ポイントガードは2年目の2002-03シーズン、4年目の2004-05シーズンにも優勝に貢献したものの、現実はタフな環境だった。パーカー入団時、スパーズはティム・ダンカンというリーグ最高級のビッグマンがおり、精神的支柱デイビッド・ロビンソンとの"ツインタワー"が中心で、キャリア10年以上を誇るベテランが5人もいたからだ。

 しかも当時のNBAでは、アメリカでのプレー経験のない外国出身選手はまだ少数で、信頼を得るまでに苦労を重ねた。加えて、常勝軍団スパーズは優勝を期待されていたチームだったこともあり、要求も高かった。実際、パーカーは「TD(ダンカン)のことが怖かった。いつも怒っているように見えた。最初の1年間は話しかけてくれなかった。彼からリスペクトを勝ち獲るのは難しかったんだ。最初は辛かったよ」とのちに振り返っている。

 そうした状況にあっても、パーカーはポポビッチHCのもとで着実に力をつけていった。「彼はスコアリングガードだった。つまり本当のPGではなかったんだ。そこで、私は彼をチームメイトたちへパスを配球する選手にすることで、より効果的かつ勝利を助けることになるかもしれないと思ったんだ」と、パーカー育成のプロセスを明かすポポビッチHC。続けて、「(パーカーは)私が要求したことをこなしてくれた」と彼の成長に目を細めた。

 そして迎えたのが、キャリアのハイライトとも言うべき2007年のファイナル。パーカーは、レブロン・ジェームス率いるクリーブランド・キャバリアーズ相手にシリーズ平均24.5得点、5.0リバウンド、3.3アシストにフィールドゴール成功率56.8%を残して自身3度目の優勝を飾り、ヨーロッパ出身選手として史上初のファイナルMVPを受賞した。スパーズは2013-14シーズンにもリーグを制し、パーカーは4度も優勝チームの一員になった。

【スパーズ、フランス代表で永久欠番に】

 キャリア最初の17シーズンをスパーズ、最後の2018-19シーズンを憧れのジョーダンがオーナーを務めていたシャーロット・ホーネッツでプレーし、2019年6月に引退を表明。オールスターに6度、オールNBAチームに4度選出というすばらしいキャリアを送った。

 NBAの18シーズンでレギュラーシーズン通算1254試合へ出場したパーカーは、キャリア平均15.5得点、2.7リバウンド、5.6アシストにフィールドゴール成功率49.1%をマーク。スコアリングガード全盛の現代PGたちと比較すると、3ポイント試投数のキャリア平均が1.3本、成功率も32.4%と物足りなく映るかもしれない。

 しかし、この男には電光石火のクイックネスとスムーズなボールハンドリング能力が備わっていた。ダンカンと3ポイントライン付近で仕掛ける"ハイピック&ロール"も効果絶大で、パーカーは面白いように相手守備陣の合間を縫うようにドライブしていった。

 ミッドレンジジャンパーやリム付近で繰り出すレイアップも得意としていたが、パーカーのシグネチャームーブはやはりフローター。

「小さい頃から自然とやっていた。僕は小柄で細身だったから、大きな相手からシュートする方法を見つけないといけなかった。それを超速くやったんだ。ショットをコントロールしてね。それで僕のトレードマークになったのさ」

 パーカーは素早い動きからペイントエリアへ侵入し、ドライブから1歩目で高いアーチを描くフローターを放ち、面白いように決めていった。その絶妙なシュートタッチから"ティアドロップ"と呼ばれ、相手の動きにうまく対応して切り出す方向転換や一気にギアを上げて相手を出し抜くヘジテーション、美しいスピンムーブもあり、オフェンス面で脅威となった。

 2019年11月には背番号9がスパーズの永久欠番となり、2023年にはスペイン出身のパウ・ガソル(元ロサンゼルス・レイカーズほか)、ドイツ出身のダーク・ノビツキー(元ダラス・マーベリックス)というリーグの国際化に尽力した外国籍出身選手たちとともに殿堂入りを果たした。

 引退後、パーカーは2020年にフランスでアカデミーを開校して若い世代の育成にも尽力。現在はフランスのリオンを本拠地にするクラブLDLCアスヴェルを運営するなど精力的に活動している。

「子どもの頃に描いていた夢でも、自分のジャージーが永久欠番になるなんて想像すらしていなかった。それだけスパーズで、僕らはすごいことを成し遂げてきたんだと思い知っているよ」

 選手としてのキャリアをそう振り返ったパーカー。今年7月12日のフランスとセルビアの強化試合で、背番号9がフランス代表の永久欠番にもなった。オリンピックへ2度、FIBAユーロバスケット(欧州選手権)へ6度も出場したパーカーは、ユーロバスケットで計4つのメダル(金1、銀1、銅2)を獲得した。それは、同代表のチームスポーツ選手として史上初の快挙だ

 NBAにはこれまでノビツキーやガソル、現役でもヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス/ギリシャ)、ニコラ・ヨキッチ(デンバー・ナゲッツ/セルビア)、ルカ・ドンチッチ(マーベリックス/スロベニア)といったヨーロッパ出身のスーパースターたちがいるが、なかでもパーカーはヨーロッパ出身のPGとしてGOAT(史上最高の選手)のひとりと言っていいはずだ。

【Profile】トニー・パーカー(Tony Parker)/1982年5月17日、ベルギー
ウェスト=フランデレン州生まれ。2001年NBAドラフト1巡目28位指名。
●NBA所属歴:サンアントニオ・スパーズ(2001-02〜17-18)―シャーロット・ホーネッツ(18-19)
●NBA王座:4回(2003、05、07、14)/ファイナルMVP:1回(2007)
●五輪代表歴:2012年ロンドン五輪(6位)、2016年リオ五輪(6位)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)