(8日、第106回全国高校野球選手権大会1回戦 明豊4―8小松大谷) 金色のメダルが、明豊(大分)の江藤柊陽(しゅうや)選手(3年)を甲子園に導いた。52年前の夏、全国を制したチームのメンバーだった祖父が、何度も見せてくれた宝物。「じじ」…

 (8日、第106回全国高校野球選手権大会1回戦 明豊4―8小松大谷)

 金色のメダルが、明豊(大分)の江藤柊陽(しゅうや)選手(3年)を甲子園に導いた。52年前の夏、全国を制したチームのメンバーだった祖父が、何度も見せてくれた宝物。「じじ」に聞いた「特別な空間」を味わいたい。努力を重ね、たどりついた8日の大舞台で躍動した。

 1972年、第54回大会の決勝戦。中九州代表として出場した津久見(大分)は、西中国代表の柳井(山口)を3―1で破り、優勝した。母方の祖父、小出泰二さん(69)は控え投手としてベンチ入りし、歓喜の瞬間を味わった。

 江藤選手が野球を始めたのは、小学1年のころ。体験会で「振ったバットに球が当たり、楽しかった」のがきっかけだ。じじ、と呼ぶ祖父が、甲子園の優勝メンバーだったとやがて知った。

 大分県別府市の自宅から車で20分ほどの祖父宅を訪れるたびに、メダルに触らせてもらった。四角くて、手のひらに乗るサイズ。思ったより、軽い。テレビで見る、あこがれの世界の甲子園が身近に感じられた。「あそこで、じじは優勝したんだ。僕も出てみたい」。得意の守備を鍛えた。

 地元の強豪、明豊に進むと、道の険しさに気付いた。レギュラーになるのは簡単ではなく、甲子園出場はもっと難しい。

 昨夏、ベンチ入りした大分大会で優勝し、もらったメダルと祖父のものとを比べた。大きさも重さも、さほど変わらないが、「重み」が違う、と感じた。「甲子園の決勝は、1球ごとに大きな歓声が上がる。特別な空間だったよ」。当時の話を聞き、「自分も」と甲子園に乗り込んだ。初戦で途中出場はしたが、延長十回タイブレークで敗退。今春の選抜大会は遊撃手として出場したが、健大高崎(群馬)に2回戦で敗れた。相手は勝ち上がり、春の覇者となった。

 どうしたら日本一になれるか。仲間がそれぞれの課題に取り組む中、遊撃手としての守備力と、打撃では小技を磨いた。今春の九州大会で左手の親指を骨折しても、「あきらめない。日本一になりたい」。不調の原因を探るため、ユーチューブで野球の動画を見あさった。「不安定な下半身のせいかも」と気づき、毎日、数種類のスクワットに取り組むなど、体を鍛え直した。

 約1カ月後に復帰すると、徐々に調子が上向いた。踏ん張りがきいて球際に強くなり、送球も安定。打球は低く強く飛ぶように。今夏の大分大会では無失策で、打率も3割5分3厘を記録した。

 迎えた8日の小松大谷戦(石川)は接戦に。同点で迎えた六回裏、1死一塁で打席へ。「つなぐ」。低めの直球を振り抜くと、右前安打となり、1点勝ち越しにつながった。八回にも安打を放ち、軽快な守備も披露した。

 試合は悔しい逆転負け。全国優勝は遠かったが、アルプススタンドで見守った小出さんは「孫が甲子園で一生懸命プレーする姿を見られただけでうれしい」。試合後、江藤選手は悔し涙を浮かべながらも、はっきりと言った。「じじの言うとおり、甲子園は特別で、夢のような場所だったって伝えたい」(石垣明真)