1980〜90年代のビッグセンター時代に、そのトップの地位であり続けたオラジュワン photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載10:アキーム・オラジュワン プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。…


1980〜90年代のビッグセンター時代に、そのトップの地位であり続けたオラジュワン

 photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載10:アキーム・オラジュワン

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第10回は、ビッグセンター活況の1980〜90年代にトップであり続けたアキーム・オラジュワンを紹介する。

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【瞬く間に大学界トップセンターに】

 1980年代から90年代にかけて、NBAには試合を支配できるセンターが数多くいた。そのなかでも、アキーム・オラジュワンはトップ中のトップという評価に値する選手だ。

 オラジュワンは、アフリカのナイジェリア出身。少年時代にやっていたスポーツはサッカーで、バスケットボールを本格的にプレーし始めたのは15歳の時だった。

213cmの身長に加え、サッカーのゴールキーパーをやっていたことが、バスケットボールでもフットワークやクイックネスを活かすこと、ブロックショットの能力を発揮するのに役立った。

 1980年、ヒューストン大のガイ・ルイスコーチが友人の勧めでプレーを見たことがきっかけで、オラジュワンは渡米した。NCAA(全米大学体育協会)で注目度が上がったのは、2年生になった1982−83シーズン。オフの間に3度のMVP受賞歴のあるヒューストン・ロケッツのセンター、モーゼス・マローンとワークアウトを行なったことは、選手として大きな飛躍を遂げるきっかけとなった。オラジュワンはこう語る。

「モーゼスが私を助けてくれたのは、コートに出て、そのレベルの競争相手と戦わせてくれたことだ。彼は当時NBAで最高のセンターだったから、私は最高の選手を相手に自分のプレーを向上させようとしていたんだ」

 当時のヒューストン大は身体能力の高い選手を多く揃え、試合中に何度も豪快なダンクを見せることから、『Phi Slama Jama(ファイ・スラマ・ジャマ)』と呼ばれるチームとして、全米中の注目を集めた。オラジュワンの『The Dream』というニックネームは、いとも簡単にダンクを決めてしまうことから、大学時代のコーチが「夢を見ているようだ」と言ったことからつけられたもの。のちにNBAオールスターとなるクライド・ドレクスラーとともに主力選手となったオラジュワンは、平均13.9点、11.4リバウンド、5.1ブロックショットを記録した。

『Phi Slama Jama」は順当にNCAAトーナメントを勝ち上がり決勝に進出したが、ノースカロライナ・ステイト大にブザービーターのダンクで逆転負け。オラジュワンは翌年もチームをNCAA決勝まで導くも、パトリック・ユーイングがいたジョージタウン大に敗れて2年連続の準優勝に終わる。

【NBA王座までの紆余曲折の歩み】

 1984年のNBAドラフトにアーリーエントリーすると、オラジュワンは、マイケル・ジョーダンより先に1巡目1位でロケッツに指名された。ラルフ・サンプソン(224cm)とツインタワーを構成したオラジュワンは、1試合平均20.6点、11.9リバウンド、2.68ブロックショットの数字を残し、ロケッツが前のシーズンから19勝も勝ち星を増やす(29勝53敗から48勝34敗)要因となる。

 2年目の1985-86シーズンには王者だったロサンゼルス・レイカーズをウェスタン・カンファレンスで倒すのに大きく貢献。NBAファイナルはボストン・セルティックスに敗れて頂点に立てなかったが、攻防両面でインサイドを支配するビッグセンターとして認知された。ひざの故障に悩まされるようになったサンプソンが1987年12月12日にゴールデンステイト・ウォリアーズにトレードされると、オラジュワンはロケッツを牽引する大黒柱としてのキャリアを歩み始める。

 1988年から4年連続のプレーオフ1回戦敗退、1991−92シーズンはプレーオフに進めないという苦難を味わうなど、ロケッツが成果を出すまで時間がかかった。不満を持ち始めたオラジュワンはオーナーとの関係も悪化し、トレードを要求する事態に発展する。

「私は正当に評価されていないと感じていた。この組織に全身全霊を捧げてきたから、彼らがそれに応じて私を評価していることを示すのを期待していた」と語ったオラジュワンに対し、ロケッツはルディ・トムジャノビッチをヘッドコーチに就任させ、1993年にレスリー・アレクサンダーが新しいオーナーになってから関係が修復。1993年のカンファレンス準決勝でシアトル・スーパーソニックスに3勝4敗で負けたが、オラジュワンはこのシリーズで平均23.1点、13.1リバウンド、4.7アシスト、4.3ブロックショットを記録していた。

 シカゴ・ブルズを3連覇に導いたマイケル・ジョーダンがメジャーリーグ挑戦を理由に引退を発表したあとに迎えた1993-94シーズン、オラジュワンのキャリアは頂点に達した。カンファレンス準決勝のフェニックス・サンズ戦はホームでの2連敗から巻き返し、カンファレンス決勝でユタ・ジャズを4勝1敗で撃破。自身2度目のNBAファイナル進出を果たす。

 NBAファイナルの相手はニューヨーク・ニックス。大学のラストゲームとなったNCAA決勝で負けたパトリック・ユーイング相手に、オラジュワンは7試合中6試合で25点以上を奪った。2勝3敗で迎えた第6戦で30点、第7戦でも25点、10リバウンド、7アシストという大活躍によって、ロケッツを初のNBAタイトルに導いたのである。

「チャンピオンシップを勝ち取ることは夢の実現です。これまでの努力、犠牲、すべてが今、報われた。私はただアグレッシブに、自分のプレーをしたかった。チームメイトは私を信頼してくれたし、彼らのために結果を出したかった」

 こう語ったオラジュワンは、1試合平均26.9点、9.1リバウンド、3.6アシスト、3.9ブロックショットを記録して文句なしでファイナルMVPに選出。ユーイングも平均18.9点、12.4リバウンドと奮闘したが、多彩なステップから相手を翻弄するオラジュワンの圧倒的なパフォーマンスは、シリーズに大きな違いをもたらした。

【盟友ドレクスラー加入で2連覇】

 追われる立場となった1994−95シーズン、ロケッツは2月下旬から5連敗を喫するなど、苦しい戦いを強いられていたが、大学時代の盟友、ドレクスラーがシーズン途中の2月にトレードでやって来たことが大きな転機となる。下位の第6シードになったロケッツだが、プレーオフに入るとドレクスラーがチームにフィットし始め、徐々にタフな王者としての強さを発揮し始める。

 カンファレンス準決勝で1勝3敗からの3連勝でフェニックス・サンズを撃破すると、カンファレンス決勝のサンアントニオ・スパーズ戦では、オラジュワンは、レギュラーシーズンMVPに選ばれたデイビッド・ロビンソンとのマッチアップで40点以上を3度記録するなど圧倒したのが決め手となり、4勝2敗でシリーズを制した。

 NBAファイナルの相手は、ネクスト・ブルズの呼び声の高かったオーランド・マジック。圧倒的な存在感を誇っていたセンターのシャキール・オニール、長身ガードのアンファニー・ハーダウェイを中心とするマジックを前に、ロケッツの下馬評は低かった。しかし、オラジュワンは前年のユーイング以上にフィジカルの強さが圧倒的だったオニールとのマッチアップで、多彩なスキルとフットワークで翻弄。平均32.8点、11.5リバウンド、5.5アシストを記録し、誰もが予想だにしなかったスイープ(4連勝)でロケッツを2連覇に導いた。再びNBAファイナルのMVPに輝いたあと、「多くの困難に直面したが、自分自身とお互いを信じていた」と語ったオラジュワンは、NBAの歴史における偉大な選手のひとりであるという立場を確固たるものにした。

 1993年にアメリカ国籍を取得したオラジュワンは、ドリームチーム2の一員として1996年アトランタ五輪で金メダルを獲得。1997年のオールスター・ウィークエンドでは、NBAの歴史に残る偉大な選手50人に名を連ねた。

 38歳となった2001年夏、オラジュワンは17シーズン過ごしたロケッツからトロント・ラプターズに移籍。しかし、往年のような支配力はなく、2002年のプレーオフ1回戦でデトロイト・ピストンズに敗れた後、現役生活に終止符を打った。

 引退後、コービー・ブライアントやレブロン・ジェームスがポストプレーを教わるためにヒューストンを訪問していたことは、オラジュワンが偉大なセンターとして尊敬されていたことの証と言える。

【Profile】アキーム・オラジュワン(Hakeem Olajuwon)/1963年1月21日、ナイジェリア・ラゴス生まれ。ヒューストン大出身。1984年NBAドラフト1巡目1位指名。
●NBA所属歴:ヒューストン・ロケッツ(1984-85〜2000-01)―トロント・ラプターズ(2001-02)
●NBA王座:2回(1994、95)/シーズンMVP1回(1994)/ファイナルMVP2回(1994、95)/最優秀守備選手賞2回(1993、94)/オールNBAファーストチーム6回(1987〜89、93、94、97)/
●主なスタッツリーダー:リバウンド王2回(1989、90)/ブロックショット王3回(1990、91、93)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)