<パリオリンピック(五輪):フェンシング>◇4日(日本時間5日)◇男子フルーレ団体◇決勝◇グランパレ【パリ4日(日本時間5日)=木下淳、竹本穂乃加】男子フルーレ団体で世界ランキング1位の日本が、種目初の金メダルを獲得した。松山恭助(27=J…

<パリオリンピック(五輪):フェンシング>◇4日(日本時間5日)◇男子フルーレ団体◇決勝◇グランパレ

【パリ4日(日本時間5日)=木下淳、竹本穂乃加】男子フルーレ団体で世界ランキング1位の日本が、種目初の金メダルを獲得した。松山恭助(27=JTB)飯村一輝(20=慶応大)敷根崇裕(26)永野雄大(25=ともにネクサス)が、準決勝で地元フランス、決勝で世界2位イタリアを連破。過去2度の表彰台は太田雄貴(38)らの銀だった伝統種目フルーレが、悲願の輝きに包まれた。五輪初参加から過去72年で通算3個だったマイナー競技が、今大会だけで5個(金2銀1銅2)の大躍進。「史上最強」を、フェンシング発祥国に乗り込み証明した。

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有終の美を飾ったのは“お家芸”だった。3分×9試合で45点先取の団体戦。アンカーを任された20歳飯村が41-36から一気の4連続ポイントでイタリアを倒し、発祥国のピスト(競技台)で両手を広げ、日の丸も広げ「夢か現実か分からなくなった」と感動した。

世界で8チームしか通過できない予選をランク1位で突破。五輪本番では準決勝で開催国フランスに45-37、決勝で過去7度の金を誇るイタリアに45-36で完勝した。第8試合では補欠から初出場した永野が、緊張の初パリながら18年世界王者を5-0で圧倒する衝撃。本人は「頭が真っ白。聞かないで」と笑うが、日本の層の厚さを物語った。

最後の扉を破った。フルーレでは08年北京五輪で太田雄貴が日本初メダルとなる銀。12年ロンドン大会は団体(太田、千田健太、淡路卓、三宅諒)が銀に輝いた。しかし、ここまで。21年東京五輪は4位。初の金は男子エペ団体に先を越され「悔しい」と本音を隠さなかった松山主将は「今回もメダルラッシュが続き押しつぶされそうだった。負けたら日本に帰れなかった」。世界1位が重圧に負けず優勝。真の実力だ。東京五輪で個人、団体とも4位に終わり、勲章の境界線で泣いた敷根も「何としても初の金」と燃えていた。前回決勝のロンドンで敗れたイタリアに借りを返した。

ジュニア時代、太田らの代表合宿に飛び級で呼ばれた松山たちが成長し、昨年の世界選手権で日本の団体史上初V。翌年、五輪も制した。先駆者の太田は「僕らは指をかけただけ。別次元の王者」と感服する。ウーバーイーツ三宅も12年前を「太田雄貴と仲間たち」と表現したが、今は違う。最強陣容。松山は22年W杯で日本勢12年ぶりの優勝を遂げ、昨年は世界3位。敷根は東京五輪4強で、飯村は22年の世界ジュニア王者だ。パリでは4強だった。飯村の父栄彦さんは太田が現役時代のコーチで、まさに“2世”。「パブリックビューイングで太田さんを応援していた」少年が、今年5月に食事した際に「太田さんを超えます」と本人に宣言。実現してみせた。

8年前の約束もある。16年リオ五輪で引退表明した太田氏から、練習相手だった松山は「借りを返してくれ」と19歳で主将に後継指名された。5年後は世界ランク6位で東京五輪を迎えて4位。パリは世界1位で金メダルだ。松山は「絶対に超える。誰ひとり揺るがなかった」と力を込めた。

日本としても「事件」レベルの最多5個を、競技人口6000人(世界は50万人)の国に持ち帰る。知名度上昇も、松山は「日本の“お家芸”への始まり」。太田も「ここがピークではダメ」。五輪史に残る大トリを金色で彩った日を、次の1歩にする。【木下淳】

◆フルーレ ポイントが入る有効面は、手足を除く胴体両面および頭部。突きだけ有効で、先に手を伸ばした方が攻撃権を持つなどのルールもあり、細かい手先の技術が必要となる。他にエペ、サーブルと計3種目あり、日本ではフルーレが“お家芸”と呼ばれた。団体は1チーム3人(補欠1人)編成で1試合3分の総当たり9ゲーム制。45点を先取か、終了時に得点の多いチームの勝利となる。