<パリオリンピック(五輪):体操>◇31日(日本時間8月1日)◇男子個人総合決勝◇ベルシー・アリーナ【パリ7月31日=阿部健吾】パリで新しいチャンピオンが誕生した。男子個人総合決勝で初出場の20歳、岡慎之助(徳洲会)が6種目合計86・832…

<パリオリンピック(五輪):体操>◇31日(日本時間8月1日)◇男子個人総合決勝◇ベルシー・アリーナ

【パリ7月31日=阿部健吾】パリで新しいチャンピオンが誕生した。男子個人総合決勝で初出場の20歳、岡慎之助(徳洲会)が6種目合計86・832点で金メダルを獲得した。日本勢の制覇は12年ロンドン五輪から4大会連続で6人目。「ニッポンの宝」と称された逸材が、大けがを乗り越えて世界の頂点に立った。橋本大輝(セントラルスポーツ)は84・598点の6位で2連覇を逃した。

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涙はない。いつものニコニコ顔だ。岡は表彰台の真ん中で日の丸の旗を眺めながら、思い返していた。

岡 ケガをしてからきついトレーニングもあったけど、パリが自分の中の軸としてあったから。それがなかったら、ここには立てていないだろうし、それがあったからここまでこられた。1つ強くなったな。

右ひざの前十字靱帯(じんたい)完全断裂してから、まだ2年。この時を一度も諦めたことはなかった。

悲運は22年4月。19年に世界ジュニア選手権で優勝し「日本の宝」と大きな期待をかけられ、世界の階段を上がっている途中だった。全日本選手権で予選を3位通過。優勝圏内にいながら、決勝で右ひざの跳馬の着地で、大けがを負った。5月末、手術に臨んだ。全治は8カ月と診断された。

地獄の地味なリハビリが始まった。跳躍は不可で、重点強化したのは股関節。横向きになって片方の足を上げ下げを「ずっと」。着地の姿勢の中腰でじっと我慢し続けるなど、徳洲会の仲間が汗を流す練習場の隅っこで、3時間は当たり前。「毎日筋肉痛」でも、コツコツと。太ももは太くなり、着地再開時には、進歩は著しかった。動かず、真っすぐ深く地面を捉える。

この日の演技でも随所に“ケガの功名”を放った。冒頭の床運動で次々に着地を止めた。ライバルの張(中国)が頭を床に付けるミスで出遅れる中、「2種目目のあん馬が大事」と気を引き締めた。大きな開脚旋回で会場を沸かせた後、橋本が落下し、1歩リード。跳馬でも尻もちを付きそうな着地をこらえ、リハビリ中の成果を感じた。平行棒で首位に立ち、最終の鉄棒では「中途半端な演技はしない」と雄大に離れ技も飛んだ。凡ミスと重ね、名前の「しん」をもじって「ちん(チーン)」と呼ばれた姿はない。堂々と演じ抜き、勝利が決まると橋本らにもみくちゃにされた。

「ただきれいなだけではなくて、柔軟性もある。しなやかな動きもできるところが自分の持ち味」。ケガ前から自信はあった。両手を頭の後ろに組んだまま、両肘が付く。驚異の可動域の広さは、保育園で4歳で逆上がりができた流れで入った地元の「おかやまジュニア」で培った。とことん基礎練習。柔軟はもちろん、倒立は毎日1時間ほど。「倒立は休憩」と中3で疲れない肩の入れ方に開眼するほど、徹底した時間を過ごした。

いま世界の体操界で「慎之助が好き」という声が増えている。国際連盟が求める理想の美しさに符号している証しだ。出来栄えの評価で、本人も驚く高得点が出ることもしばしば。生来の柔軟性に、ケガを経て進化させた着地が、理想の体操選手を世界一の称号にまで一気に駆け上がらせた。「ここからもチャレンジ精神は忘れずに。勝ち続けられるように頑張っていきたい」。日本の宝は世界の宝になった。苦難を経ても手放さなかったその笑顔に、パリが魅了された。

☆岡慎之助(おか・しんのすけ)☆

◆生まれ 2003年(平15)10月31日生まれ、岡山県出まれ。

◆サイズ 158センチ、58キロ。

◆戦績 19年世界ジュニア選手権で団体総合、個人総合2冠。当時は139センチ。今年5月のNHK杯で橋本不在ながら初優勝。

◆競技歴 小学校から地元の「おかやまジュニア」に所属。高校は地元・関西高に進むも、直後に高校生では異例となる実業団の徳洲会入り。星槎国際横浜高から現在は星槎大3年。

◆名前 由来はプロ野球巨人ファンの父泰正さんが阿部慎之助のような「スーパースターになってくれ」と命名。あだ名は「慎ちゃん」。徳洲会で指導する米田功監督は「車で例えるならフェラーリ」と絶賛。

◆盟友 星槎国際高横浜時代はクラスメートにフィギュアスケート男子で北京五輪銀メダルの鍵山優真がおり親友に。ともに有名になる未来を見据え、色紙にサインの練習をしていた。鍵山の活躍に「次は自分が」と奮い立った。

◆得意種目 あん馬、平行棒、つり輪。