取組前の気合い入れが印象的だった高見盛 photo by 時事通信 平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。 そんな平成を代表する力…


取組前の気合い入れが印象的だった高見盛

 photo by 時事通信

 平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

 そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、その独特なキャラクターと取組前のルーティンで人気を博した高見盛を紹介する。

連載・平成の名力士列伝04:高見盛

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【区切りやめるつもりがいつの間にか大相撲に......】

 関取ともなれば、誰しもが得意の"型"を持っている。いわば"勝ちパターン"であり、力士は稽古のなかで自分に合った型を見つけ、己の体に染み込ませるまで何年もかかって磨き上げていく。

右を差して寄るというシンプルな相撲を愚直なまでに追求し、三役をも射止めたのが高見盛だった。土俵上のぎこちない独特な動きから"ロボコップ"の愛称でも親しまれた。

 相撲どころの青森県は板柳町出身の高見盛こと加藤精彦は、男ばかりの3人兄弟の末っ子として生まれた。ふたりの兄はスポーツ好きで活発な少年だったのに対し、精彦少年は外で遊ぶよりも漫画やゲームで遊ぶのが好きな無口な子だった。

 人と競うのが苦手でスポーツにも興味を示さなかったが、体は大きかったので板柳北小4年の時、担任の先生から相撲を勧められた。本人はまわしを締めるのが恥ずかしく、嫌がっていたが「相撲部に入らなければ、給食のおかわりをさせない」と言われ、渋々始めることに。練習態度は熱心とは言い難かったが、ただ思いきり体当たりするだけの大きな体を生かした相撲で、結果だけはついてきた。6年生のときは板柳北小が県大会で団体優勝を果たし、その流れで板柳中学に進学後も相撲部に所属することになった。

 部内の稽古ではからっきし勝てない精彦少年だったが、中3の全中大会個人戦で優勝して中学横綱に輝き、周囲を驚かせた。相撲は中学卒業と同時に辞めるつもりでいたが、もはやそんな状況ではなかった。高校は強豪校の弘前実業高へ進学。中学横綱が入部するとあって大きな期待で迎えられたが、稽古場ではやはり弱く、中学時代の実績と普段の実力のギャップに悩み、入学早々、退部を決意する。

「中学横綱になれたのは運がよかっただけ。実力もないのにみんなに申し訳ない」といった内容の手紙をしたためたが、母親の「一日だけ待って。手紙は預かるから」という言葉に従うと、その後は何ごともなかったように相撲に打ち込んだ。

 高3の国体少年の部では決勝戦でのちの琴光喜を破って優勝。またしても相撲と縁を切る機会を逸し、進学した日大でも4年でアマチュア横綱となり、プロ入りすることに。ビッグタイトルを獲得したがために自らの意思に反して相撲を続けることになる。

「自分には相撲しかない」と気づくのは、幕内2場所目で右膝前十字靭帯断裂の重傷を負い、幕下まで番付が急降下したときだった。

【事欠かない人間味あふれるエピソード】

 平成14(2002)年3月場所、1年半ぶりに幕内に復帰したが、おなじみの"気合い注入パフォーマンス"は、この場所から始まった。制限時間いっぱいになるとこぶしを握り、自らの顔面を右、左と殴ると両こぶしを2度、3度と下に思い切り振り下ろす。塩を掴んで土俵中央に振り返ると、何やら叫んでいるときもある。傍目から見れば"奇行"としか見えないが、「またケガをするんじゃないかと緊張して足が震えるので」と本人は大まじめで不安払拭に努めていた。

 高見盛に翌日の対戦相手を知らせるのは"御法度"だった。知ってしまうと夜も眠れなくなるくらいの不安に駆られるからだ。事情を知らない記者が「明日の相手は......」と言いかけると突然、両耳を塞いで喚き散らしたこともあった。

 勝てば天井に反りかえるくらい堂々と胸を張って花道を引き揚げるが、負けるとこの世の終わりかというくらい情けない表情でうなだれて帰っていく。"カトちゃん"の一挙手一投足に、相撲ファンは勝っても負けても大喜びした。

 そんな一本気な高見盛の相撲ぶりも、ただ右を差して寄るだけだ。自分の型を強化させるために、稽古場では鉄砲柱に向かって何度も右肩から突進していったが、こんな使い方をするのは"カトちゃん"しかいない。本来、鉄砲柱とは摺り足をしながら左右交互に突いて、突き押しの型を磨くためのものだ。鉄砲柱は地中約1メートルまで埋め込み、根本をコンクリートで固めていたにもかかわらず、高見盛が毎日ぶつかるためにすぐに傾いてしまうほどだった。

 稽古の仕上げで行なうぶつかり稽古は、胸を出してもらう相手の両脇に手を下から当てがい、ハズ押しの形で行なうものだが「あいつは右を差しにいった」と兄弟子の潮丸(東関親方、故人)が証言していた。胸を出す部屋頭の横綱・曙に何度も怒られていたが、どうしても直すことができなかった。最後は横綱が折れて「かいなを返して起こして出ろ」と言われていた。

 こうして地道に磨いてきた右差しからの寄りという"一点突破"で、再入幕から4場所目の同年秋場所、新小結に昇進。最大のハイライトは平成15(2003)年7月場所だろう。武蔵丸、朝青龍の2横綱、武双山、千代大海の2大関を破り、9勝で初の殊勲賞を獲得した。

 その後も長く土俵を務めたが、晩年は右肩のケガが悪化して十両暮らしが長くなり、幕下への陥落が決定的となった平成25(2013)年1月場所を最後に、36歳で土俵を去った。

【Profile】高見盛 精彦(たかみさかり・せいけん)/昭和51(1976)年5月12日生まれ、青森県北津軽郡板柳町出身/本名:加藤精彦/しこ名履歴:加藤→高見盛/所属:東関部屋/初土俵:平成11(1999)年3月場所/引退場所:平成25(2013)年1月場所/最高位:小結