アイザイア・トーマスは185cmの小柄なガードながら高い得点力も誇った photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載08:アイザイア・トーマス プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時…


アイザイア・トーマスは185cmの小柄なガードながら高い得点力も誇った

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NBAレジェンズ連載08:アイザイア・トーマス

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第8回は、1980年代にフィジカルなプレーで「バッドボーイズ」の異名をとったデトロイト・ピストンズの司令塔、アイザイア・トーマスを紹介する。

【幼少期から際立った才能でNBAのスターに】

 インサイドを支配できるセンターが不在、小さなガードが大黒柱という布陣でも、NBAチャンピオンになれることを証明したのが、1989年と1990年にNBA2連覇を成し遂げたアイザイア・トーマスとデトロイト・ピストンズだった。

 イリノイ州シカゴで9人兄弟の末っ子として生まれ育ったトーマスは、幼少期に父親が蒸発。母・メリーにギャングからの勧誘されないよう、守られて育てられた。近所ではドリブルとシュートのうまい子としてすぐに知られる存在になると、シカゴ市内の公立高校ではなく、公共の交通機関で自宅から1時間半かかる強豪校、セント・ジョセフ高に進学。在学中にチームを州選手権決勝に導くなど、トーマスは将来が楽しみなポイントガードとしてNCAA(全米大学体育協会)の有名校から勧誘される。

 兄のひとりは、トーマスがデポール大でプレーすることを望んだため、インディアナ大の名将ボビー・ナイトが自宅を訪問した際に嫌がらせをした。しかし、マリーはナイトコーチの厳しさがトーマスにとっての自立の機会と捉え、トーマスをインディアナ大へ進学させることを決断。ナイトの厳しい指導に順応したトーマスは、すぐにチームの中心選手となる。

 2年生ながらキャプテンになった1980−81シーズン、トーマスはフィールドゴール(FG)成功率55.4%、1試合平均16点、5.8アシストを記録。NCAAトーナメント(全米大学選手権)で第3シードとなったインディアナ大は、上位シード校が2回戦で敗れるなか、着実に勝ち上がってファイナルフォーに進出する。そして準決勝でルイジアナ・ステイト大を19点差で破ると、決勝では1980年12月に対戦した際に負けていたノースカロライナ大を63対50で破って全米制覇。決勝で23点中19点を後半で稼ぎ、5アシスト、4スティールの大活躍を見せたトーマスは、ファイナルフォーの最優秀選手に輝いた。

 1981年のNBAドラフトにアーリーエントリーすると、デトロイト・ピストンズから1巡目2位で指名されたトーマスは、NBAデビュー戦で31点、11アシストをマーク。ルーキーながらチームの中心選手として平均17点、7.8アシストを記録し、オールスターにも選ばれた。

 2年目以降5シーズン連続で1試合平均20点以上、3年目から4シーズン連続で10アシスト以上の成績を残すなど、トーマスはNBA屈指のポイントガードへと飛躍。1984年と1986年にはオールスターゲームのMVPに輝いた。

しかし、トーマスの加入後、ピストンズは長い低迷から脱却したものの、なかなかプレーオフで結果を出せなかった。

【積年の悔しさからNBA2連覇へ】


1989年、初めてNBAの頂点に立ったトーマスとピストンズ

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 1984年プレーオフ1回戦・対ニューヨーク・ニックスとの第5戦、トーマスは、第4クォーターに94秒間で16点を奪って試合を延長に持ち込むパフォーマンスを見せるも敗戦。1987年の東カンファレンス決勝、セルティックスとの第5戦では、ピストンズが1点リードで迎えた残り1秒に自身のインバウンドバスをラリー・バードにスティールされ、デニス・ジョンソンに決勝点となるレイアップを決められ敗戦。それが痛手となり(シリーズ3勝4敗)、初のNBAファイナル進出を阻まれた。

「セルティックスが48分間(高い集中力で)プレーし続けなければならないことを教えてくれた」と言うトーマスは翌年、1980年代のイースタン・カンファレンスを支配していたバードとセルティックスを倒し、高校時代からの親友であるマジック・ジョンソンがいるロサンゼルス・レイカーズとのNBAファイナルに挑んだ。

 3勝2敗で王手をかけて迎えた第6戦、トーマスは第3クォーターで左足首を捻挫。激痛に耐えながらもプレーし続けると、第3クォーターだけで25点を奪うなど43点と大爆発したが、土壇場で逆転されて1点差の敗戦。第7戦も3点差で惜敗し、トーマスはまたも悔しい思いをしたのである。

 しかし1988−89シーズン、ついに積み重なった悔しさを晴らすことになる。

 乱闘を恐れないフィジカルなディフェンスを武器に、『バッドボーイズ』と呼ばれたピストンズは、公式戦を63勝19敗のNBA最高成績でプレーオフに進出。カンファレンス決勝ではシカゴ・ブルズに1勝2敗からの3連勝でNBAファイナルに進むと、前年に悔しい思いをしたレイカーズ相手に4連勝。ファイナルMVPに選ばれたジョー・デュマースとのガードコンビを軸にしたチームで初のチャンピオンシップ獲得が決定的になると、タイムアウトでベンチに座ったトーマスは白いタオルで顔に被せて涙を流した。1980年代のNBAを支配した2強を倒して手にしたチャンピオンシップについて、トーマスは次のように語っている。

「セルティックス、そしてレイカーズといった強敵を相手に優勝を勝ち取ったことで、これまで努力してきたことがすべて証明された。それは、ひとりの選手や一試合だけの成果ではなく、チーム全体が団結し、自分たちがトップにふさわしいチームであることを証明したんだ」

 次のシーズンも成長著しいブルズをカンファレンス決勝で4勝3敗と何とか退けたピストンズは、NBAファイナルでポートランド・トレイルブレイザーズを4勝1敗で倒して2連覇を達成。平均27.6点、7アシストでチームを牽引したトーマスは、文句なしのファイナルMVPに輝いた。

 3連覇を目指した1990−91シーズン、トーマスは手首の故障で長期の戦線離脱を強いられた。ピストンズはカンファレンス決勝まで勝ち上がったが、マイケル・ジョーダンとブルズを止める答えがなく、4連敗を喫してシーズン終了。トーマスはブルズの選手と握手せず、ゲームが終わる前にロッカーに下がった行為は全米中から批判された。1988年のプレーオフ、バードとセルティックスがピストンズに対してやったことと同じ行為という認識をトーマスは持っていたが、『バッドボーイズ』の悪いイメージによって火に油を注いだのである。

 ブルズに3連覇を阻まれたことで、ピストンズの時代は終わりを告げた。そして1994年4月19日の試合でアキレス腱を断裂したことで、トーマスは13年間のNBAキャリアに終止符を打つことになる。

【3人のレジェンドをプレーオフで唯一倒した男】

 トーマスは13年連続でオールスターに選出されるなど間違いなくNBAのスーパースターだったが、時にラフすぎるフィジカルプレーや挑発的なコメントも含め、親友だったジョンソンとの関係は悪化。他のスーパースターたちもトーマスと一緒にプレーしたくないという理由で、トーマスは、1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得した『ドリームチーム』のメンバーに選ばれなかった。

 天使と思えるような笑顔を見せるかと思えば、勝つために手段を選ばないというメンタリティを持っていたトーマス。身長185cmと決して体格に恵まれたわけではないが、バード、ジョンソン、ジョーダンという3人の「レジェンド」をプレーオフで倒した唯一のスーパースターとして、NBAの歴史に名を刻んだのは間違いない。2連覇を成し遂げたあと、トーマスはこんな言葉を残している。

「私について何を言っても構わないけど、私が勝者じゃないと言うことは誰にもできない」

 現役引退後、トーマスはトロント・ラプターズの副社長、インディアナ・ペイサーズやニューヨーク・ニックス、フロリダ・インターナショナル大のヘッドコーチを務めてきたが、2012年以降はNBATVのアナリストとして活躍。2013年にはカリフォルニア大バークリー校で教育の修士号を取得し、アイザイア・インターナショナルという会社を経営する実業家でもある。

【Profile】アイザイア・トーマス(Isiah Thomas)/1961年4月30日、アメリカ・イリノイ州生まれ。インディアナ大出身。1981年NBAドラフト1巡目2位指名。
●NBA所属歴:デトロイト・ピストンズ(1981-82〜93-94)
●NBA王座:2回(1989、90)/ファイナルMVP1回(1990)/オールNBAファーストチーム3回(1984〜86)/オールスターMVP2回(1984、86)
●主なスタッツリーダー:アシスト王1回(1985)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)