■レッツ・スタディー!スポーツ編 開業100年の甲子園《後編》 阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)が8月に開場100年を迎えます。その歴史をひもとくスポットを巡ったNMB48の川上千尋さん(25)がその後、足を運んだのは、球場に隣接する甲子園歴…

■レッツ・スタディー!スポーツ編 開業100年の甲子園《後編》

 阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)が8月に開場100年を迎えます。その歴史をひもとくスポットを巡ったNMB48の川上千尋さん(25)がその後、足を運んだのは、球場に隣接する甲子園歴史館。稲崎航一・大阪スポーツ部長とともに、目の当たりにしたのは、決して平らではなかった「聖地」の歩みでした。

 甲子園歴史館に入って、川上さんがまず目をとめたのは、甲子園100年の歩みをたどるパネルコーナーの始まりあたりにある写真でした。

 「うわー、牛や! 牛おる!」

 写真には、工事中の甲子園で何頭もの牛がローラーを引き、整地している様子が写っています。「当時、機械とかなかったんですか?」

■工期わずか4カ月半 甲子園建設、実は「かなりの突貫」

 案内してくれた歴史館の吉川達彦さんが解説します。「機械も使っていましたが、実はかなりの突貫工事だったんです」

 球場建設工事はとにかく急がれ、1924年3月の着工からわずか4カ月半で完成しました。

 「すごいなあ……」

 川上さんは、ふと、幼い頃にみた甲子園の外観を思い出したようです。

 「そういえば、ちょっと前までモジャモジャでしたよね?」

 吉川さんが続けます。

 「この年のシーズンオフからツタが植えられました。当時の外観がコンクリートで、少々殺風景だったということで、育ちの早いツタを植えて、装飾の一環にしていました」

 2006年からのリニューアル工事の際、いったんすべて伐採した後、再び植樹して現在に至っているそうです。「ツタの歴史もそんなに長かったなんて」と川上さんは驚いた様子です。

 ここで、稲崎スポーツ部長からクイズ。

 「甲子園の施設で、朝日新聞の紙面がきっかけとなって愛称が名付けられた場所があります。それはなんでしょうか」

 「なんだろう。ブルペン? バックスクリーン? なんか違うなあ……」と悩む川上さん。

 吉川さんがパネルを指さします。

 「ヒントは朝日新聞に載ったこちらの記事。画家の岡本一平さんという、岡本太郎さんのお父さんなのですが、スタンドに白い服がたくさん並ぶ様子を見て、ある山にたとえました」

 「あっ、アルプススタンド!」

 木造20段だった内野スタンドが鉄筋コンクリート50段に改修されたのが1929年。当時、大阪朝日新聞に漫画を連載していた岡本は、そのスタンドを壮大な雪の山脈にたとえたのです。

 その後、36年に外野席も20段から50段に増築され、ここにも愛称がつけられました。こちらは「ヒマラヤスタンド」。しかし、なぜか定着しませんでした。

 ある愛称は定着し、ある愛称は根付かない。ファン心理の微妙さはアイドル界にも共通すると感じてか、川上さんは苦笑ぎみでした。

     ◇

■アルプスまで覆った「大鉄傘」がたどる悲劇

 甲子園と言えば、バックネット裏から内野席を覆う屋根。今は「銀傘」と呼ばれていますが、昭和初期の写真をみた川上さんがあることに気づきます。「昔は柱があったんですね」

 吉川さんは「当時は鉄傘(てっさん)と呼ばれる鉄製の屋根で、アルプスまで覆っていました」。

 しかし戦時中の43年、その鉄傘がすべて取り外され、国に供出されることに。「戦後の51年になって、銀傘と呼ばれる現在のジュラルミン製の屋根がついたのです」

 その銀傘について、球場の親会社・阪神電鉄は昨年7月、アルプス席の頭上まで拡張する構想を発表しました。川上さんは「うれしい。戦前のような形に戻るということですよね。特に高校野球の応援団にはありがたいですよね」。

 戦争の影響はそれにとどまりませんでした。パネルの下に展示されていた鉄製の扉が、川上さんの目にとまります。扉には無数の穴やへこみのようなものがありました。「これはもしかして、銃弾かなにかですか?」

 戦争が激化すると、食糧事情も窮迫し、内野グラウンドには芋畑がつくられ、45年8月6日には激しい空襲があったといいます。弾痕の残る扉は「この状態のまま、6号門で近年まで使われていました」(吉川さん)。

 川上さんはつぶやきました。「野球を存分に楽しめる平和に感謝しないといけませんね」

     ◇

 甲子園球場は「甲子園大運動場」という名前で開業し、野球以外にも様々な競技や興行が開かれました。

 「これはスキーのジャンプですか?」

 川上さんが指さした写真は38年に撮影されたもの。レフトスタンドの傾斜を利用してジャンプ台が設営されていたのです。

 「ジャンプの大会が2回ほど行われました。新潟から汽車で雪を運んで実施したそうですよ」と吉川さん。

 「面白い! 色々なスポーツが行われていたんですね!」

 「そうですね。ほかにも野外歌舞伎の興行や鷹(たか)狩りの競技会なんかもありました。毎年12月にはアメリカンフットボールの甲子園ボウルが行われているのも、その名残ですね」

■大山選手のホームラン ラッキーゾーンがあったら…

 その広さゆえに「ホームランが出にくい」といわれ、戦後、「ラッキーゾーン」が設けられました。91年に撤去されるまで、甲子園の名物でもあったラッキーゾーンを仕切っていたフェンスが館内に展示されています。

 「今もラッキーゾーンがあったとしたら……。阪神の大山(悠輔)選手のホームラン本数が年50本くらいに達しているかも知れませんよ」と川上さんは独自の計算で推測していました。

     ◇

 館内には「甲子園グルメ大使」を務める川上さんにとって見過ごせない看板もありました。

 「甲子園カレー コーヒー付き30銭」

 川上さんは「甲子園のグルメと言えばやっぱりカレーですよね。いつからあるんですか?」と興奮気味。吉川さんは「1924年の開業当初から続くメニューです」。まさかの、甲子園カレーも100周年。川上さんは「ええっ!」。

 「当時のグラウンドキーパーの日給が75銭なので、30銭というのはかなりのごちそうだったと考えられます」

 うなずきながらそれを聞いた川上さん。

 「甲子園で食べるカレーは、私も一番幸せを感じるごちそうです。100年前と同じですね」

     ◇

 その後、高校野球コーナー、そして阪神タイガースコーナーをめぐった川上さん。

 特別に、球場のバックスクリーン下のスペースに入れてもらい、雨にぬれる無人の観客席を見渡しました。100年ぶんの観客の笑顔と涙が、一瞬、早回しの映像のように脳裏に浮かんだといいます。「ふだん座っている場所に100年もの歴史があったんだと実感しました。そして私も、その歴史に連なる観客の一人なんだと」

 いいときも悪いときも、歴史の一部。「だからこそ、戦争や苦しい時代を乗り越えた人たちへの敬意と感謝は忘れずにいたいです」と川上さんは力を込めました。(構成・岸上渉、阪本輝昭)