微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝証言者:基満男(後編)前編:基満男は高木豊を起用した関根潤三に憤慨はこちら>>大洋移籍後の80年には打率.314をマークし、ベストナインを獲得した基満男【不穏な空気のまま始まった83年シーズン】 1983(昭和58…

微笑みの鬼軍曹〜関根潤三伝
証言者:基満男(後編)

前編:基満男は高木豊を起用した関根潤三に憤慨はこちら>>



大洋移籍後の80年には打率.314をマークし、ベストナインを獲得した基満男

【不穏な空気のまま始まった83年シーズン】

 1983(昭和58)年、基満男はレギュラーの座を高木豊に奪われた。多少の衰えを感じつつも、「まだまだレギュラーとして活躍できる」という自負はあった。それでも、大洋ホエールズ監督就任2年目となる関根潤三は、セカンド定位置の座をプロ3年目の高木豊に与えた。基の言葉を借りれば「与えた」のである。前編で紹介した生前の関根が出版した『若いヤツの育て方』(日本実業出版社)には、この頃の基満男についてこんな記述がある。

 ベンチを暖めることが多くなった基は、当初、激しい不満をもらしていたようだ。"試合に出てなんぼ"のプロ野球にあって、スタメン落ちは生活権を奪われるのに等しい。彼の怒りはプロとして当然である。

 もちろん、関根も基の怒りを理解していた。理解していたうえで、さらにこう続ける。

 だが、チームの将来のために、私はそれを承知で基をはずした。ベンチに下げられた者の悔しさは、私にもよくわかる。だから辛い。しかし新旧交代を為し遂げるには、犠牲となるベテランが絶対に必要だ。

 当然、基は納得していない。その見解を聞こう。

「何度も繰り返すけど、ポジションは与えられるものではなく、奪い取るものやろ? せめて競争させてほしかった。それがオレの考え。ただ、関根のオッサンの考えもよく理解できる。監督とか、指導者っちゅうのは、何年か先のことも当然考えなければいけない。若手育成を考えるのは当然のことだし、それが豊なのも当然だと思う。それでもオレは競争したかった。ただそれだけの思いやね」

 83年開幕戦にスタメン出場後、しばらくの間、基はベンチスタートとなった。この間、プロ3年目の高木がセカンドを守り続けた。基によると「この頃、『基を出せ!』というファンの人からの野次も多かった」という。関根もまた、自著においてこう記している。

 私は基の衰えを感じた。そして、翌日のゲームから基をベンチに下げ、思い切って高木をスタメン・セカンドで起用した。スタンドから激しいヤジが飛んだ。
「高木、引っ込め!」
「なぜ、基を使わないんだ!」

 不穏な空気をはらんだまま、83年シーズンは始まったのである。

【ピンチヒッター転向を拒否】

 その後も関根と基の緊張状態は続いた。シーズン中のある日、基は監督室に呼ばれた。一対一で腹を割って話す機会が訪れたのである。

「この年のペナントレース中、プッツンきて、関根のオッサンとケンカしたよ。頭に来てるから、よぉ覚えとらんけど、1時間ぐらいオッサンの話を聞いた。内容は覚えとらん。オレから言わせれば、『よぉ、黙って1時間も話を聞いとったな』って、自分を褒めたいぐらいや。本当なら『やかましい、黙っとれ!』って言いたいところだったから(苦笑)」

 この時、関根が基に説いたのは「代打としての重要性」だった。試合終盤、チャンスの場面で登場する勝負強いベテランの存在はチームに不可欠だ。関根は、基にその役割を求めたのである。基が続ける。

「オッサンに『ピンチヒッターとして頑張ってほしい』って言われたから、『イヤや』って言ったよ。その後、コーチだった近藤(和彦)さんからも、『基、頼むから代打でいってくれ』って言われたけど、オレは断ったよ。自分で(スタメンで)出さないと決めておいて、『(代打で)出てくれ』と言われても、出さないと決めたのはそっちやろ。試合に出る、出ないを決めるのは、せめてもの選手の権利やろ」

 頑固である。しかし、それが腕一本で生き抜いてきたプロとしての矜持でもあった。その後も首脳陣による説得が続いたものの、基は頑として受け付けなかったという。当時は自覚していなかったけれど、今となっては、「なぜ、自分がそこまで意地になっていたのか」、思い当たることがあるという。

「今から思えば、名球会を意識していたのかもしれんね。当時は1700本近く打っていたから、2000本という意識があったのかもしれん。誰にも邪魔されなかったら、到達する可能性もあったから。そういうこともあって、余計に腹を立てていたのかもわからんね」

 関根と基との「冷戦」に終止符が打たれたのは、数カ月後のことだった。九州時代の後援者を通じて知り合った住職から、「おまえの三振が見たい」と言われたことで考えを改めるきっかけを得た。さらに、若手選手がこの件を話題にしているのをふと耳にしたことで、考えは決まった。

「ある日の食事会で、若手選手たちが『基さんぐらいになったら、監督が出てくれと言うても、イヤと言えるんだな』と話しているのを聞いてしまった。この時、自分がやっていることは若手に対して、決していい影響を与えていないことに気づいたんやね。練習態度や試合に臨む姿も決していいとは言えなかったはずだから」

 基は考えを改めた。ひとまず、関根と基による「冷戦」は終戦を見たのである。

【40年を経て、いま思うこと】

 84年シーズン、基はコーチ補佐を兼任することになった。同時に代打としての勝負強さも発揮した。83年には打率.307、翌84年には.345を記録した。

「代打では、よぉ打ったよ。『あのオッサンに負けちゃいかん』って思っていたから。ピンチヒッターというのは、レギュラーになれなかった人間がやるもの。だから、レギュラーの時と同じ心境で打席に入っても打てない。『そのピッチャーのベストボールは打てないんだ』って理解したうえで、投げそこないを打つ。絶対に投げそこないを凡打しない。そんな気持ちで打席に入っていたのがよかったのかもしれんね」

 結局、この年限りで基はユニフォームを脱いだ。プロ生活18年で放ったヒットは1734本、2000本には届かなかった。あらためて、自身の転機となった83年を振り返ってもらうと、最初に飛び出したのはポジション争いを繰り広げた高木への賛辞だった。

「あの年、豊はよぉ頑張ったと思うよ。実質1年目で3割を打ったんやから。上等じゃない。だから監督の考えは間違いじゃなかった。あらかじめポジションを与えて、我慢強く起用することでひとりの選手を育て上げた。それは絶対に間違いじゃなかった。よその監督がそれをしていたら、『正しい判断だ』って思うよ。ただ自分のチームで、自分のこととして考えたら、オレにとっては間違いやけどな」

 限られたポジションを奪い合うプロの世界に生きた男の発言だった。この頃、関根と基との冷え切った関係を耳にした、広島・古葉竹識監督が「基獲得」を企図したこともあったが実現には至らなかった。当時、浪人中だった長嶋茂雄からは「基、絶対に辞めるなよ」と言葉をかけてもらったこともあった。

 現役引退後、基は野球解説者となった。のちにユニフォームを脱いだ関根と横浜スタジアムで再会した。この時、基は関根のことを「監督」と呼び、自らあいさつをした。のちに関根が「基が『監督』と呼んでくれた」と喜んでいたと人づてに聞いた。

「全然、覚えとらんけど、オレが『監督』と呼んだことが、関根のオッサンにとってすごくうれしかったんだって。顔を知ってる年長者に、年下の方からあいさつに行くのは当然のことやろ。その後、年賀状のやり取りはずっと続いたよ。でも、それぐらいの関係性だったね」

 最後に、あらためて今から40年前の「関根監督時代」を振り返ってもらった。基の口調が再び厳しくなった。

「もう、今さらどうのこうのとは思いもせんけど、やっぱり、ポジションは奪い取るものやろ。技術は盗み取るものやろ。決して与えられるものではない。その考えは、今でも変わらんけどね」

 そこには、「指導者と選手」の間に横たわる埋められない溝があった。時代を経ても、埋められない深い隔たりがあった──。

関根潤三(せきね・じゅんぞう)/1927年3月15日、東京都生まれ。旧制日大三中から法政大へ進み、1年からエースとして79試合に登板。東京六大学リーグ歴代5位の通算41勝を挙げた。50年に近鉄に入り、投手として通算65勝をマーク。その後は打者に転向して通算1137安打を放った。65年に巨人へ移籍し、この年限りで引退。広島、巨人のコーチを経て、82〜84年に大洋(現DeNA)、87〜89年にヤクルトの監督を務めた。監督通算は780試合で331勝408敗41分。退任後は野球解説者として活躍し、穏やかな語り口が親しまれた。2003年度に野球殿堂入りした。20年4月、93歳でこの世を去った。

基満男(もとい・みつお)/1946年11月10日、兵庫県出身。報徳学園から駒澤大(中退)、篠崎倉庫を経て、67年ドラフト外で西鉄(現・西武)に入団。好打と堅守を武器におもに二塁手として活躍。72年にはプロ6年目で初の3割となる打率.301、20本塁打、盗塁25を記録し、ベストナインを獲得。その後、太平洋、クラウンを経て79年に大洋(現・DeNA)移籍。80年にはキャリアハイとなる打率.314を記録し、ダイヤモンドグラブ(現・ゴールデングラブ賞)とベストナインに輝いた。84年限りで現役を引退。通算1914試合出場で1734安打、189本塁打、672打点、打率.273。引退後は解説者や指導者として活躍した。