連載第7回 サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は、間もなく開幕するパリ五輪…

連載第7回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は、間もなく開幕するパリ五輪の男子サッカーについて。出場選手枠の変遷と、そうしたなかで五輪サッカー史上最高の試合となった一戦を紹介します。



1988年ソウル五輪男子サッカー決勝のソビエト連邦対ブラジル photo by Getty Images

【メキシコ五輪でなぜ日本はメダルを獲れたのか】

 パリ五輪が間もなく開幕する。サッカー競技は7月26日の開会式より早く、男子が同24日(日本時間25日)、女子が25日(同26日)にそれぞれ初戦を迎える。

 ところで、五輪大会のたびに男子サッカーに関して「メキシコ五輪以来のメダル」という報道を目にする。今から56年前の1968年に開催されたメキシコ五輪で、日本は銅メダルを獲得した。その後、2012年のロンドン五輪で日本はベスト4に進出したが、3位決定戦で韓国に敗れてメダル獲得はならなかった。

 だから「メキシコ大会以来の」という言い方は、事実としては完全に正しい。

 だが、この比較には僕はとんでもなく大きな違和感を覚える。1968年当時と現在では、五輪サッカーを巡る状況があらゆる面で違い過ぎるのだ。

 1968年当時の五輪は、どの競技もアマチュアだけが参加できた。よって、西欧や南米のサッカー大国は、五輪には純粋のアマチュア選手かプロ契約前の若手選手を送り込んできていた。

 たとえば、1964年の東京五輪では、イタリア代表にジャンニ・リベラ、サンドロ・マッツォーラという超有名選手が含まれていた。イタリアは「彼らはプロ契約前だからアマチュアだ」と主張したが、結局イタリアは棄権を余儀なくされた。

 一方、東欧の社会主義国にはプロ制度がなく、選手は労働者や軍人、学生だった。しかし、彼らはサッカーをプレーすることで数々の特権(高級住宅とか外貨、海外旅行の機会など)が与えられる実質的なプロであり、W杯では西欧プロと渡り合っていた。

 だから、第2次世界大戦後の五輪では、サッカーのメダルは東欧諸国にほぼ独占されていた。

 日本からは、フル代表が五輪に挑戦していた。W杯よりも五輪がフル代表の最高の目標だったのだ。

 当時の日本にはプロがなかったから全員がアマチュアだったが、企業チームに所属する選手たちは仕事を休んで試合や大会に参加することできたので、西欧の純粋のアマチュアとは違う存在だった。

 しかも、1964年に地元東京で開催される五輪のために、日本代表は西ドイツからデットマール・クラマーコーチを招聘し、毎年、欧州遠征を繰り返して集中強化を行なった。また、たとえば広島の東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)所属の選手は、転勤扱いを受け合宿所で寝起きしながら、東京支社に出社した。

 そして、東京五輪終了後も日本代表のメンバーはほとんど変わらず、そのまま4年間強化を重ねてメキシコ五輪に臨んだのだ。

 当然、完成度はきわめて高かった。

 今年のパリ五輪には、フル代表ではなくU-23代表が参加する。しかも、オーバーエイジ枠を活用しなかっただけでなく、23歳以下の選手でも久保建英や鈴木彩艶のように所属クラブの許可が得られないため参加できない選手が多数いる。

 だから、1968年のメキシコ五輪と今年のパリ五輪を単純に比較できるわけはない。

【五輪の参加資格の変遷】

 五輪の参加資格の変遷をおさらいしておこう。

 1896年に近代五輪が始まってからずっと、五輪はアマチュアだけの大会だった。

 サッカーにおいても、第2次世界大戦前は英国4協会とオーストリア以外には正式なプロ制度がなかったから、各国とも若手主体のフル代表を参加させていた。

 1936年のベルリン五輪で、日本は1回戦でスウェーデンに3-2で勝利。2回戦ではイタリアに0-8と完敗を喫した。この時、日本と対戦したイタリアは1934年イタリアW杯と38年のフランスW杯を連覇したヴィットリオ・ポッツォ監督が率いる若手主体のフル代表だったのだ(このベルリン五輪でも金メダル)。実際、日本と対戦した選手の何人かは1938年のW杯にも出場している。

 だが、第2次世界大戦後は西欧各国でサッカーが正式にプロ化したので、冒頭にご紹介したように、その後は東欧の社会主義国の時代が続いた。

 ところが、1970年代になると五輪を主催するIOC(国際五輪委員会)は、一転してプロの参加を容認する。五輪大会の注目度を上げて、テレビ放映権収入を拡大するためだった。

 サッカーでもプロの参加が認められた。しかし、FIFAはW杯との差別化を図るために、すべての選手に門戸を開くことはなかった。

 IOCとFIFAの思惑が錯綜した。そして、1988年のソウル五輪では「W杯に参加したことがないすべての選手」に五輪参加資格が与えられた。

 つまり、2年前の1986年メキシコW杯以降にフル代表に加わった選手は、年齢に関係なく参加できたのだ。そのため、ソウル五輪には錚々たる顔ぶれが集まった。

 ソウル五輪で優勝したソビエト連邦(ソ連)は、同年に開かれた欧州選手権(EURO)でも準優勝していたが、その時の中心選手アレクセイ・ミハイリチェンコ(ウクライナ人)はソウル五輪でも活躍。西ドイツはユルゲン・クリンスマンやトーマス・へスラーといったフル代表の主力が出場していたし、ブラジルからはGKタファレルやジョルジーニョ、ロマーリオ、ベベットといったメンバーが参加した。

【感動的だったソウル五輪決勝】

 ソウル五輪の決勝はソ連とブラジルの顔合わせだった。そして、29分にCKからのボールをロマーリオが決めて、ブラジルが先制する......。

 会場のソウル五輪主競技場には、7万4000人の観客が集まった。

 だが、五輪の観客は必ずしもサッカー好きとは限らない。たまたまサッカーの入場券が手に入ったとか、五輪観戦ツアーに参加したら、たまたまサッカー観戦が含まれていた。そんな、サッカー観戦は初めてという人たちもたくさんいるのだ。

 試合が始まってからも団体客がぞろぞろと途中入場してきたし、スタンドはいつまでもザワザワとした雰囲気で、集中できない雰囲気だった。はたしてこの試合の面白さが観客に伝わるのだろうか......。

 ソ連は、後半にイーゴリ・ドブロボルスキー(彼もウクライナ人)がPKを決めて同点とすると、延長に入って103分のゴールでソ連がリード。その後、ブラジルは同点を目指してひたむきに攻撃を続けたが、得点には至らないまま刻一刻と残り時間が少なくなっていく......。

 場内の大型映像装置には、ブラジルのカルロス・アルベルト・ダ・シルバ監督(のちに読売サッカークラブ=現東京ヴェルディ=監督)が大粒の涙を流す姿が映し出される。

 スタンドの雰囲気も、試合が進むにつれ変わっていった。

 普段サッカーを見たこともないような人々も、すばらしい内容の攻防に引き付けられていったのだ。延長に入るころには、スタンド全体が試合に集中。スタンドのあちこちから自然発生的に「ブラジル、ブラジル」というコールが聞こえてきた......。

 ソウル五輪の4年後、1992年のバルセロナ五輪から男子サッカーは23歳以下の選手による大会となった。バルセロナ五輪ではオーバーエイジ枠もなかったが、地元バルセロナ所属のジョゼップ・グアルディオラらの活躍でスペインが優勝して大いに盛り上がった。

 しかし、それでもソウル五輪こそが、五輪の男子サッカー史上最高レベルの大会だったことは間違いない。そして、僕はそのすばらしい内容の試合がサッカーに詳しくないような観客を引き付けていったことに驚いたのである。

 ソウル五輪決勝は技術的にも五輪史上最高の試合だったし、僕にとって最も感動的だった試合の一つでもある。