多彩さと創造性でNBAにインパクトを残したマヌ・ジノビリ photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載07:マヌ・ジノビリ プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せるこ…


多彩さと創造性でNBAにインパクトを残したマヌ・ジノビリ

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NBAレジェンズ連載07:マヌ・ジノビリ

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第7回は、21世紀のバスケットボールに大きな影響を与えたアルゼンチン人、マヌ・ジノビリを紹介する。NBAではサンアントニオ・スパーズを4度の頂点に導いた主力として、そしてアルゼンチン代表ではプロ選手の参加が容認されて以降、勝ち続けてきたアメリカ代表に立ちはだかった存在として、深く記憶されている。

 パリ五輪の男子5人制バスケットボールが現地時間7月27日から幕を開ける。最大の注目は、大会5連覇がかかるアメリカ代表。今夏の祭典で、アメリカは近年における「最高の布陣」とも言えるNBAのスーパースター軍団を送り込んでいる。

 そんなアメリカがオリンピックで最後に敗れたのは、2004年アテネ大会。2002年のFIBA世界選手権(現ワールドカップ)の2次リーグでアメリカ代表の国際大会での連勝記録を52でストップしたアルゼンチン代表が、準決勝でアメリカ相手に89―81で勝利を収めた時だ。

 その試合でゲームハイの29得点と大爆発し、最終的にアルゼンチンを金メダルへ導き、英雄としての地位を確立したのがマヌ・ジノビリだ。

【スパーズ黄金期の主軸として】


2004年アテネ五輪準決勝でアメリカを破り、その存在をさらに知らしめた

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 ジノビリは、1977年7月28日にアルゼンチンのバイア・ブランカで生誕。父ホルヘは国内のプロリーグでポイントガードをしていて、7歳上のリアンドロ、5歳上のセバスチャンという兄たちもバスケットボールをしていたこともあり、その道に進む要素はそろっていた。

 当時、南米アルゼンチンにはNBAの情報がほとんど入ってこなかったものの、ジノビリはマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れ、部屋にはNBAのビデオ(VHS)とジョーダンの等身大ポスターが飾られ、試合後にはそのポスターへ話しかけるほどの大ファンだった。

 10代半ばの2年間で身長が10インチ(約25cm)伸びて198㎝になった男は、ダンクもできるようになり、高校の試合で注目を浴び、卒業後は大学へ進まずアルゼンチンのアンディノへ入団。プロリーグで実力を磨き、1997年にオーストラリアで開催された「FIBA U-22世界選手権」のアルゼンチン代表としてプレーするまでになる。その時、会場にいたサンアントニオ・スパーズのRC・ビュフォードGM(ジェネラルマネージャー/当時)は、まだジノビリという名前を耳にしたこともなかったが、彼のプレーに衝撃を受けた。そして、こう語った。

「まるで未熟な若者がコートへ出ているかのようだった。本当に驚かされたよ。理にかなっていることもあったが、理解できない部分もあったね」

 当時のスパーズは、デビッド・ロビンソンとティム・ダンカンによるツインタワーで1999年に球団史上初優勝。その結果、ドラフトでは高順位を得ることできなかったため、同年のドラフト2巡目全体57位でジノビリを指名している。

 ただ、「あの時は『何だって?』って思った。信じられなかったんだ。失敗だと思ったね。僕はまったく期待されていなかった。期待値ゼロだったのさ」と、当時のことを振り返ったジノビリ。彼にとっては、まさに寝耳に水だったことがうかがえる。

 そこからジノビリは、イタリアに渡って成長を続けていく。ビオラ・レッジョカラブリアで2年間プレーし、ビルトゥス・キンダー・ボローニャへ移籍すると2000-01シーズンにユーロリーグ優勝、ファイナルMVPにも輝いた。

 2002年の世界選手権を挟んで2002-03シーズンからスパーズ入りしたジノビリは、ケガでチームへの合流が遅れたこともあって平均20.7分、7.6得点、2.3リバウンド、2.0アシスト、1.4スティールにとどまった。それでも、ローテーションの一角を務め、新人ながら勝負どころでも活躍。チームは成長著しい若手ガードのトニー・パーカーの台頭もあり、2003年に2度目の優勝を飾る。

 その後、スパーズはダンカン、パーカー、ジノビリの"ビッグスリー"体制へ移行していく。2005年にはジノビリが相手どころか味方さえも欺く予測不能な動きの数々でコート上を席巻し、3度目の優勝を手にした。

 さらにスパーズは2007年にも優勝を達成するのだが、その過程で不可欠だったのはジノビリのシックスマン(試合途中でベンチから出場する一番手の選手)への転向だった。グレッグ・ポポビッチHC(ヘッドコーチ)は技巧派レフティの能力をさらに生かすべく、2006-07シーズン中盤からシックスマンとして固定。この決断によって、スパーズは先発のダンカンとパーカーが試合を作り、彼らがベンチへ下がった時間帯でもジノビリが主役となってチームメイトたちを盛り立てることでチーム力が増した。

 スパーズはビッグスリーの脇を固める選手たちを入れ替えつつ、プレーオフ出場を続けていき、2013年にもファイナル進出。この年はマイアミ・ヒート相手に3勝2敗から屈辱の2連敗で惜しくも優勝を逃すも、翌2014年にヒートへリベンジして見事チャンピオンへ返り咲き、通算5度目のリーグ制覇を達成する。

【ユーロステップの顔としての存在】

 ジノビリは2017-18シーズンまでスパーズひと筋16シーズンをプレー。計4度の優勝を飾ったほか、2007-08シーズンには最優秀シックスマン賞を受賞し、オールスターとオールNBAチームにはそれぞれ2度選ばれ、40歳までNBAのコートへ立ち続けた。

 198cm・93kgの筋肉質な肉体を誇った男は矢のように鋭いパス、相手の意表を突くビハインド・ザ・バックパス(自身の背後から繰り出すパス)やオーバーヘッドパスを決め、自由自在にボールを操るドライブから相手ディフェンダーを惑わす芸術的なボールフェイクなども繰り出した。見事なスピンがかかった巧みなレイアップやジャンパーを放り込み、豪快なダンクで会場を沸かせ、憎たらしいほどの勝負強さも備わっていた。

 とはいえ、ジノビリのシグネチャームーブと言えば、やはりユーロステップだろう。ドライブから1歩目で相手に近づき、瞬時に繰り出す2歩目で出し抜いてレイアップまで持ち込む鮮やかさは強烈なインパクトを与えた。側から見ると、ペイントエリアに密集する相手ディフェンス陣を潜り抜けるため、ジグザグにステップを踏んでいるように見える。

 2002年にその動きを初めて目の当たりにしたポポビッチHCが、「あれがいったい何なのかわからなかった。正しいプレーには見えなかったね」と語ったように、NBAでも"異色"と呼べるものだった。

 ジョーダンに憧れ、兄たちと切磋琢磨して育ち、アルゼンチンやイタリアで腕を磨いた男は、"ジノビリ・ステップ"とも評されたプレーを「詳しく説明することなんてできないね。あれは不可思議かつ本能的なものなんだ」と語る。

 一般的に、NBAにユーロステップを持ち込んだのは1989年にデビューして7シーズンをプレーしたリトアニア出身のシャルーナス・マーシャローニス(元ゴールデンステイト・ウォリアーズほか)と言われているが、両選手を知るブレント・バリー(元ロサンゼルス・クリッパーズほか)が語った言葉が、ジノビリが世の中に与えた影響力を最も端的に表している。

「僕はシャルーナスともたくさん対戦したけど、もっとコンパクトにやっていたよ。彼には(ジノビリのような大きな)歩幅はなかったんだ。(ユーロステップに)ダンサーのような美しさやテンポを変えるほどの優雅さを持ち込んだのは、マヌ・ジノビリなのさ」

【勝者として記憶される至高のチーム実績】

 感情を前面に出してチームを鼓舞し、常勝軍団スパーズでリーダー役もこなしてきた。独創的なプレーを展開するジノビリとは当初意見の食い違いなどがあったものの、名将ポポビッチHCは「マヌがいなければ、我々は優勝できなかった」と、4度の優勝に大きく貢献したジノビリに感謝し、「コート内外において、実に魅力的だった」とも評していた。

 レギュラーシーズン通算1057試合の出場でキャリア平均25.4分、13.3得点、3.5リバウンド、3.8アシスト、1.3スティールを残したジノビリは、背番号20がスパーズの永久欠番となり、2022年にはバスケットボール殿堂入りも果たした。

「個人として何かを達成してきたからじゃない。私は得点王とMVPを勝ち獲っていないし、(オールNBA)ファーストチームさえ入ったことがない。ここにいられるのは一緒にプレーした選手たちや指導してくれたコーチ陣、そして組織のお陰なんだ」

 確かに、ジノビリはNBAでそういったアウォードを手にしたことがない。しかし、レギュラーシーズン1000試合以上に出場した選手として史上最高勝率の72.1%(762勝295敗)をマークした実績は、評価されるべきだろう。

 また、国際大会でNBA軍団を初めて破ったチームの主砲であり、ジェームズ・ハーデン(ロサンゼルス・クリッパーズ)やディアジェロ・ラッセル(ロサンゼルス・レイカーズ)のプレースタイル構築を手伝い、アルゼンチンの子どもたちだけでなく、同じ舞台で戦ってきた選手たちにも希望を与えた。

「外国出身の選手たちにとって、(NBAで自分自身を)信じること、大きな夢を持つのは難しいこともある。彼は僕らに大きな夢を持たせてくれたし、このリーグでも偉大な存在になれることを示してくれた」

現在リーグトップレベルの選手として君臨するギリシャ出身のヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス)はそう話し、NBAコミッショナーのアダム・シルバーもジノビリをこう称えていた。

「マヌ・ジノビリはNBAの国際化に尽力したパイオニアです。彼はスポーツの力が人生を変えてくれると信じてきたバスケットボール界の偉大なアンバサダーのひとりです」

 現在はスパーズでスペシャルアドバイザーを務めるジノビリ。国際大会とNBAでこの男が残してきた実績は、今後も色褪せることはない。

【Profile】マヌ・ジノビリ(Manu Ginobili)/1977年7月28日、アルゼンチン・ブエノスアイレス州生まれ。1999年NBAドラフト2巡目57位指名。
●NBA所属歴:サンアントニオ・スパーズ(2002-03〜17-18)
●NBA王座:4回(2003、05、07、14)
●NBAシックススマン賞:1回(2008)
●アルゼンチン五輪代表歴:2004年アテネ五輪(優勝)、08年北京五輪(3位)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)