先月、広島の新スタジアムで日本代表戦が行われた。当然取材に赴いた蹴球放浪家・後藤健生だが、もちろんフィールドワークはスタジアムにとどまらない。瀬戸内海へと漕ぎ出し、日本サッカーに影響を与えた2つの島と歴史に思いを馳せた。 ■数千人のドイツ…

 先月、広島の新スタジアムで日本代表戦が行われた。当然取材に赴いた蹴球放浪家・後藤健生だが、もちろんフィールドワークはスタジアムにとどまらない。瀬戸内海へと漕ぎ出し、日本サッカーに影響を与えた2つの島と歴史に思いを馳せた。

■数千人のドイツ軍将兵が「日本」へ

 時は110年ほど前に遡ります。

 1914(大正3)年に、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発しました(「第1次」というのは「第2次」大戦があったから。当時は、ただ「世界大戦」とよばれていました)。イギリスと軍事同盟条約を結んでいた当時の大日本帝国は、イギリスの敵国であるドイツと戦争状態に入り、中国山東半島にあった膠州湾租借地や南洋諸島のドイツ軍と戦って勝利します。膠州湾租借地の中心が青島(チンタオ)市。「青島」といえばビールですが、それはここが昔ドイツの租借地だったからなのです。

 そして、数千人のドイツ軍将兵が捕虜となって日本に送られてきます。彼らを収容するため、日本各地に捕虜(当時の言葉では「俘虜」)収容所が造られました。そのうちの1つが似島にあったのです。

 日本はドイツ国民に対して憎しみを抱いていたわけでもありません。また、当時の日本政府は日本が近代的な法治国家であることを世界に示すためにも、ドイツ人捕虜を戦時国際法に基づいて丁重に扱ったのです。

■広島が「サッカー県」になった理由

 ドイツ人捕虜たちは収容所内で音楽や演劇を楽しんだり、スポーツを行ったり、日本人相手に技術指導を行ったりしました。似島の東海岸にあった収容所にも、テニスコートやグラウンドが造られ、ドイツ人たちはフッスバール(サッカー)も楽しんでいました。

 捕虜の中にはカール・ユーハイムという菓子職人もいて、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれた展示会で、日本で初めてバウムクーヘンを紹介しました。ユーハイムは、解放されてからも日本に残り、横浜で菓子店を開業。関東大震災後に神戸に移りました。ユーハイムは今でも神戸に本社を置き、日本を代表する製菓会社となっています。

 1919(大正8)年1月26日には、広島高等師範学校の運動場でドイツ人チームと高等師範学校、県師範学校、高師附属中学、広島一中の学生たちがサッカーの試合をしました。ドイツではすでにサッカーが盛んになっており、近代的なパス・サッカーも取り入れられていました。2試合を戦いましたが、5対0、6対0でドイツ・チームが連勝したそうです。

 そして、広島高師のキャプテンだった田中敬幸は、その後、毎週のように週末には似島に渡って、ドイツ人捕虜から指導を受けたそうです。後に、その田中は広島一中でサッカーを指導。同校OBによって結成された「鯉城蹴球団」は1924年と25年の全日本選手権(天皇杯の前身)で連覇を達成することになりました。こうして、広島は日本を代表するサッカー県となったのです。

■日本人が初めて「プレー」した瞬間

 そんな日本サッカーの歴史のことを考えていると、フェリーはあっと言う間に似島を通り過ぎます。

 すると、その南側にもう少し大きな島が見えてきました。これが、江田島(えだじま)です。

 江田島は海軍兵学校があった場所として有名です。海軍の指導者を育成する学校で、現在は海上自衛隊幹部候補生学校という名称になっています。

 海軍兵学校が江田島に移ってきたのは1888年のこと。前身の海軍操練所は1869年に東京・築地に創設され、翌年には海軍兵学寮と名を変えています。

 これでピンと来た方、あなたも立派なサッカー史通です。1873年にイギリス海軍の顧問団が海軍兵学寮にやって来て、日本人に対して教育を行ったのです。団長はアーチボルド・ルシアス・ダグラス中佐。この顧問団が教育の一環として兵学寮の学生にフットボールをやらせました。日本人が初めてフットボールをプレーした瞬間でした。

 江田島自体はサッカー史とはなんの関係もありませんが、海上自衛隊幹部候補生学校には今でもダグラスの肖像画が掲げられているそうです。

 こうして、日本サッカー史に思いを馳せている間に、フェリーは呉に到着。お目当ての戦艦大和ミュージアムは、この日はなんと休館日! 美味しい寿司と呉の地酒を味わった僕は、JR呉線に乗って無事に広島に戻ってきました。

いま一番読まれている記事を読む