大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜白水健太(後編)前編:大阪桐蔭「藤浪世代」に危機感を抱かせた「西谷監督交代の噂」はこちら>> 新入生として大阪桐蔭の練習を数日間終えた時、白水健太のなかにそれまで頭の隅にあったプロ野球選手になると…

大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜白水健太(後編)

前編:大阪桐蔭「藤浪世代」に危機感を抱かせた「西谷監督交代の噂」はこちら>>

 新入生として大阪桐蔭の練習を数日間終えた時、白水健太のなかにそれまで頭の隅にあったプロ野球選手になるという淡い夢は、完全に消えていた。新たな目標は、できるだけ長く野球に携わること。そのなかでも高校野球の指導者になることが、白水のなかで大きなウエイトを占めるようになった。



2021年に福井工大福井の監督に就任した際、大阪桐蔭の優勝メンバーからノックバットを手にする白水健太氏/写真は本人提供

【26歳にして高校野球の監督に】

 高校卒業後は同志社大でプレーを続けながら、教員免許を取得。大学卒業後も、社会人で現役続行を希望したが難航。就職浪人も考えていたところ、急転、BCリーグ(独立リーグ)の石川ミリオンスターズへつながった。

 きっかけは、大学でコーチを務めていた黒川史陽(智弁和歌山→楽天)の父・洋行が、白水がいずれ高校野球の指導者になりという希望を知り「いろんな野球を知っておけばいい」と、独立リーグへの選択肢を提示してくれた。

 黒川は上宮から同志社大、ミキハウスで内野手として活躍し、現役引退後はセガサミー、同志社大でコーチを務めていた。当時BC石川の監督は、黒川の高校の後輩にあたる渡辺正人が務めており、事情をくんで2013年春に入団となった。

 先々役立つために、と技術の習得に熱心に取り組んでいたところ、あるニュースが流れてきた。大阪桐蔭時代のコーチで、2013年4月から福井工大福井でコーチを務めていた田中公隆(現・聖隷クリストファー高校野球部副部長)が8月から同校の監督になるというものだった。高校の指導者としての働き口を求めていた白水は、すぐに田中のもとに電話を入れた。

 すると、こちらから切り出す前に田中のほうから依頼があった。

「うちでコーチをやる気はないか?」

 翌年2月から体育教師、野球部コーチとして福井へ。それから2年半余りが経った2020年秋、突然の監督交代により21年春から指揮を執ることになった。"結果第一"という私学の厳しさに触れながら、若干26歳での監督業がスタートした。

【大阪桐蔭とは選手の質も環境も違う】

 就任1年目の秋に県大会優勝。北信越大会まで進んだが初戦で敗退し、センバツ出場を逃した。引き続き期待の高かった2022年夏は、準々決勝で北陸に敗退。うっすら見えていた甲子園への道はプツッと途切れ、深い反省だけが残った。

「いま考えたら、僕が完全に焦っていたんです。北信越で負けてセンバツの可能性が消え、力があるチームだったので『夏は絶対に勝つ。甲子園に行かないといけない』と焦る気持ちが子どもたちに伝わってしまった。あのチームは、僕がいた当時の大阪桐蔭以上と思えるくらいの練習をして、子どもたちがそれについてきてくれた。だからこそ勝ちたかったし、勝たせてあげたかった。でも僕の焦りが伝わって、最後のひと伸びをさせてやれなかった。監督としての未熟さを痛感しましたし、神様から『もっと知恵を出せ』と言われた気がしました」

 今も大会が終わるたびに、白水のスマートフォンには大阪桐蔭の恩師である西谷浩一から必ずメールが届く。時には電話や、顔を合わせて話すこともある。

 敗戦直後の教え子の気持ちを察し、「オレもそうやった」とやさしく寄り添い、最後には「おまえの一番の武器は若さやぞ」と励ましてくれる。西谷は29歳で大阪桐蔭の監督になり、今では甲子園最多勝監督として名を馳せているが、就任当初は「甲子園に嫌われているのか......」と思うほど、あと一歩の状況が続いた。

 そんな西谷の甲子園初采配、初勝利は、平田良介(元中日)、辻内崇伸(元巨人)の"怪物コンビ"に、"スーパー1年生"の中田翔(中日)で話題になった2005年夏、36歳の時だった。

「同じ立場になり、西谷先生のすごさをあらためて感じるようになりました」

 そう口にした白水は恩師の言葉、教えはしっかりと頭に入っており、気がつけば無意識のうちに、選手たちに西谷の口癖を交えて語っていることもある。

「前半はしっかり組み合って、粘って、後半勝負や!」

 一昨年秋、福井大会で優勝した直後の場内へ向けたインタビューが西谷の言い回しにそっくりだと同級生の間で話題になったこともあった。

 ただある時から、「これじゃアカン。自分の色がない」と思うようにもなった。大阪桐蔭とは選手の質も環境も違う。コーチとして赴任当初の頃は、とくに選手たちが大阪桐蔭の野球、練習などを知りたがり、それに応えようとする自分もいた。だが、コーチ、監督として6年、「西谷先生を真似ていたら、一生、大阪桐蔭には勝てない」と力強く口にする。

【まず自分を生徒に知ってもらうこと】

 チームのために、選手たちのために自分はどうあるべきか。また、白水健太の色は何か。簡単に答えにはたどり着けていないが、考えを重ねるなかでひとつの言葉と出会い、見えてきたものがある。

「勝ちたいなら、まず白水健太を生徒に知ってもらうことが一番」

 そう熱く語ってくれたのは、練習試合で訪ねた先の松山商の監督・大野康哉だ。そのアドバイスは胸に響き、白水はそこからひとつの変化を自らに課した。

「それまでは担任の白水健太も、監督の白水健太も同じカラーで通していたんです。でも今は、学校では自分の素の部分も出すようにざっくばらんに接しています。選手との距離は、前に比べたらかなり近くなったと思います。明らかに子どもたちの笑顔も増えました」

 選手が監督を知っていくと同時に、白水も選手のことをより深く知るようになっていた。

「ある時、遠征に向かうバスのなかで小説を読んでいる生徒がいたんです。僕らの時代、そもそもマンガではなく、ふつうの本を読んでいるのは藤浪(晋太郎)しかいなかったし、まして遠征に行くバスで読むヤツなんていない。そこでちょっとビックリしたのと、僕は『コイツ、すごいな』と思ったんです。これはひとつの例ですけど、選手を深く知ろうとすると、気づいていない一面があったり、僕の知らない能力を持っていることがわかったり......。そういうことが増えていくと、選手を今まで以上に信じられるようになってきました。それまでは、口では『信じてるぞ』と言っていても、心の底から信じきれていなかった。今は形をつくって、『あとはおまえらに任せるからな、頼むぞ』と。信じられるだけの根拠が増えていったからで、それは必ず野球のなかで生きてくると思います」

 ほどよい緊張感は残しつつ、軽やかなチームへと変わった今、あとひとつ、あとふたつの壁を一気に乗り越えていくことができるのか、真価が問われる夏となる。抽選の結果、厳しいブロックに入ったという声もあるが、白水は「望むところです」と胸を張った。

「大会を戦うなかで、どんどん強くなって勝ち上がっていきたい。去年の秋、敦賀気比に初戦で負けて、公式戦を1試合しか経験できなかった。だから春は少しでも多くの試合をしたいと思っていたら北信越まで行けて、緊張感のあるなかで7試合することができた。そこで選手が伸びてくれました。とはいえ、3年生もまだまだ伸びしろを残した発展途上。ですので、あとは監督次第です。選手たちの力を信じて、焦ることなく、一緒に熱くいきます!」

 昨年夏の準決勝では、動画中継を見ながら、小池裕也ら2012年のメンバーがグループLINEで大いに盛り上がった。白水率いる福井工大福井へのエールを込め、試合途中には海の向こうから藤浪も参戦。残念ながら勝利をつかむことはできなかったが、はたしてこの夏はどんな結末が待っているのか。

 白水監督の悲願の甲子園へ向け、福井工大福井の初戦は、7月20日に大野高校との間で行なわれる。決勝まで勝ち進めば2012年メンバーがスタンドに駆けつける計画もあるという。