先日、ユーロ2024に出場したウクライナ代表が訴えた、国内の厳しい現状を伝えてくれたボフダン・ブハ記者。自身はロシアの侵攻が始まったあと、兵士としてウクライナ東部の激戦地へ行き、今回サッカーの現場に戻ってきた。この2年半の壮絶な現実と想いを…

先日、ユーロ2024に出場したウクライナ代表が訴えた、国内の厳しい現状を伝えてくれたボフダン・ブハ記者。自身はロシアの侵攻が始まったあと、兵士としてウクライナ東部の激戦地へ行き、今回サッカーの現場に戻ってきた。この2年半の壮絶な現実と想いを寄稿してくれた。

「ユーロ2024でウクライナ代表が訴えた厳しい現状」>>

【2022年2月、状況と生活は一変した】

 私は今、この原稿をユーロ2024(EURO2024)決勝の翌日に書いている。このひと月、『UEFA.com』の記者としてドイツに滞在し、初めは母国ウクライナの各試合を取材し、チームが敗退したあとはライプツィヒの報道センターで働いていた。



ユーロ2024で展示されたウクライナのスタジアムの破壊された観客席の一部 photo by Getty Images

 2022年2月にロシアが私の国ウクライナに全面的に侵攻し始めてから、これが私にとって国外に出る初めてのチャンスとなった。いまだにウクライナはロシアから攻撃されているが、それでも私は今すぐに家族が待つキーウに帰りたい。ウクライナの首都は私の故郷であり、現在も生活している街なのだ。

 職業的に私がこれまでに書いてきたものといえば、選手や監督のインタビュー、チームの戦術、興味深いスタッツ、リオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウドに関する論争など、フットボールにまつわる内容ばかり。つまり、この競技を報じることを生業としてきた。けれど、2022年2月にキーウの自宅で家族と共に爆撃の音で目を覚ましてから、状況と生活は一変した。

 それがロシアの攻撃と知り、私は即座に軍への入隊を志願した。親戚や知り合いに連絡して、妻と12歳の娘に何かが起きた時、ひとまずまともに暮らせる場所を確保したあと、ふたりの親友(アントンとセルヒー兄弟)と共に召集場所に赴いた。

 だが当初、あまりにも多くの志願者が駆けつけたため、私たちが正式に入隊するまでに数日を要した。キーウ領土防衛隊(予備役や一般市民から構成される義勇兵部隊)に配属されると、ほとんどまともな武器がないなか、首都を防衛するための作業を始めた。ロシアはすでにキーウやチョルノービリなど、要所への進軍を始めていたから、私たちは塹壕を掘り、関所を設け、手榴弾など自分たちで作れる武器を溜めていった。

【戦争の恐怖】

 およそひと月後、私はウクライナ内務省に属する国内軍組織、国家親衛隊に入隊した。兵士としての経験を持たない私は、まず訓練のために軍の施設で寝泊まりすることになった。その頃は直接的な戦闘に関与せず、比較的安全なキャンプ地で、余暇にはフットボールを楽しんだ。侵攻前は記者である一方、アマチュア選手を指導するコーチでもあった私は、軍のチームでも指揮を執った。

 その後、東部ドンバスでの戦闘に従事する部隊に志願。この地方の一部ドネツクで、シャフタール・ドネツクのホームゲームやユーロ2012での試合を取材した経験を持つ私は、ロシアのプロパガンダ──当地の住民がウクライナではなくロシアの国民になることを望んでいるというもの――が、完全なるデタラメだとわかっていたから、親ロシア派に支配されている地域を解放する戦いへの参加を自ら望んだわけだ。現地に着いてからは、リマンの解放戦線や激戦地バフムートの防衛などに従事した。

 バフムートには、戦争の恐怖が満ち満ちていた。

 人的、物質的なリソースで遥かに優るロシア軍は、計画的にこの街を破壊していった。残忍な無差別爆撃、自軍の人命の損失も顧みない地上戦(ロシアは重犯罪者を刑務所から解放し、最前線に送り込んでいた)、国際法で禁じられている武器の使用など、実際に報じられている蛮行が目の前で繰り広げられていた。

 戦場にいた私のような兵士は日々、ただただ生き延びることだけを考えていた。敵の進軍の阻止に従事しながら、自分や味方が殺されないことを願っていたのだ。

 最前線では、とにかく辛抱しなければならない。寒さ、暑さ、飢え、渇き、肉体的苦痛、数日間の不眠などに耐える。洗顔や髭剃り、温かいコーヒー、コンクリートの上での睡眠らは、至上の喜びに感じられた。常に死の恐怖に晒されていると、平和な日々では当たり前だったことが、これ以上ないほど幸せに感じるのだった。

 ある時、森のなかで3日間、見回りをした。ひとりの兵士に当てがわれた水分は、1日あたりコップ2杯。食料は少量の乾燥食を2度。大雨でぬかるんだ泥のなか、眠れるわけはないが横になり、文字どおり、数百メートル先にいるはずの戦車や上空で見張っているドローンの恐怖に瀕しながら、時折、マシンガンの銃弾が空気を切る音を頭上で聞いた。氷のように冷たい雨が激しく降るなか、深い水溜りとなった塹壕のなかで一晩中座り、反撃の指令が出れば、すぐに銃を構えた。

 また30キロ以上の武器を装備して(グレネード・ランチャーを担当していた私はRPG-7という銃器を運んでいた)、5キロ先の地点まで走って向かうのも茶飯だった。当然ながら、その行程も非日常だ。攻撃されたら腹ばいになり、匍匐前進し、また立ち上がって駆ける――その繰り返しだ。まさにそうした行路を進んでいたなか、先述の親友セルヒーが銃弾に倒れた。

【除隊後も簡単ではなかった】

 彼は私のもっと近しい親友のひとりだった。妻と5歳の息子と、平和で幸福な日々を送っていただけの一般市民だ。そんな心優しい親友を、多くの人々が現代では起こり得ないと考えていた無慈悲な戦争で失ってしまった。

 そんな悲劇が起きた2023年9月13日から、私の心が痛まない日はない。ユーロ2024ドイツ大会の取材に来るまで、毎週日曜日にはセルヒーの兄アントンと墓参りをした。親友の優しい笑顔を思い出すたびに、なぜロシアがこんなにひどい殺戮を始めたのか、なぜ一部の国はこれに加担したり、容認したりするのかを自問せずにはいられない。

 私はおよそ1年間、軍に従事したあと、戦闘で負った複数のケガにより、満足な働きができなくなったため、除隊した。

 ただし、戦地から普段の生活に戻ることも、簡単ではなかった。なによりもまず、ドンバスに残してきた同胞たちのことを想ってしまうからだ。彼らはやむにやまれず銃を取り、運が悪ければ、命を落とすことになる。キーウの自宅にいると、突如として自らに激しい怒りを覚えることがある。仲間たちはまだあの骨まで冷え込む塹壕で死の恐怖と隣り合わせでいるというのに、自分は比較的安全な場所で暖かい生活を送っている――そんな自身を強烈に嫌悪してしまうのだ。

 だが、家族や友人のおかげで、自らを保つことができている。彼らの愛やサポートがなければ、とっくに精神に異常をきたしていただろう。

 親友のアントンがいてくれることも大きい。彼は弟の死のあと、すぐに除隊することもできたが、自らの意志で戦地に半年間残り、最後は懇願する両親のために帰還した。共通の大切な人を失った私たちは今、共に支え合って生きている。

 大好きな仕事に戻れたことも、支えになっている。率直に言って、もう以前ほど熱狂を感じられなくなってしまっているのは事実だが。

 だからウクライナ代表がユーロ2024の予選を突破し、UEFAからドイツでの現地取材のオファーを受けた時も、すぐには「イエス」と言わなかった。ロシアの全面侵攻が始まった時、この戦争が終わるまで、私はウクライナ国外に出ないと決めていたのだ。けれど、周囲のサポートや励ましもあり、これは代表チームと私だけではなく、ウクライナ国民にとっても特別な機会だと捉えられるようになり、公式メディアに携わるひとりとしてドイツへ行くことにした。私にとって、これが4度目のユーロ取材だった。

【またウクライナでサッカーを取材できるよう祈っている】

 むろん、以前のようにフットボールの祭典や楽しい雰囲気、スタンドのファンのエネルギー(個人的にはコロナが蔓延してから初だったが)を、心から楽しむことはできなくなっている。キーウが爆撃されたとか、長い停電が始まったとか、妻がテキストメッセージを頻繁に送ってくるたびに、集中が削がれたことを認めるほかない。また戦地の友人がチャットで話しかけてくると、完全に無視することなどできなかった。

 どんな状況にあろうとも、人生もフットボールも続いていく。ただし、今も続くウクライナの自由を勝ち取るための戦いには、終わりが見えてほしい。強くそう願っている。

 それが現実となったあかつきには、ドイツやポーランドではなく、キーウのオリンピスキ・スタジアムで代表戦やチャンピオンズリーグの試合を、また取材できるようになるだろう。かつては多くの"ピッチ上の激戦"が繰り広げられたシャフタール・ドネツクのドンバス・アリーナも、いずれ修復されることを祈っている。

 未来のことなど、なにひとつわからないが、少なくとも私はそう信じている。

ボフダン・ブハ 
Bohdan Buha/キャリア20年超のスポーツジャーナリスト。『Ukrayinskyi Futbol』、『Sport-Express』、『Top-Football』といった国内のメディアを経て、2000年代から『UEFA.com』のウクライナ担当に。過去4度の欧州選手権を現地で取材している。ロシアの侵攻が始まってから、ウクライナ軍の兵士となり、激戦地バフムートなど前線も経験。複数の負傷により昨夏に除隊、回復とリハビリを経て、ジャーナリズムの現場へ復帰した。1982年生まれ。キーウ出身。