ペトロビッチはその競争心あふれるプレーぶりで、NBAファンからも支持を得ていた  photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載06:ドラジェン・ペトロビッチ プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。…


ペトロビッチはその競争心あふれるプレーぶりで、NBAファンからも支持を得ていた

  photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載06:ドラジェン・ペトロビッチ

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第6回は、欧州のトップ選手がNBAでプレーする道を切り拓いた先駆的役割を果たし、28歳という若さで事故死したクロアチア出身のドラジェン・ペトロビッチを紹介する。

 1992年のバロセロナ五輪。マイケル・ジョーダンを筆頭にNBAのスーパースターで構成されたアメリカ代表『ドリームチーム』は、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。対戦相手は、試合前に記念撮影をするなど、対戦できること自体に満足するチームや選手が大半。しかし、クロアチア代表の得点源だったドラジェン・ペトロビッチは、本気でドリームチームを倒そうとしていた。

「相手が誰であろうと、私は常にコート上でベストを尽くす。ドリームチームとの対戦はすごいチャレンジだが、我々の実力を示すチャンスだった」

 クロアチアは決勝で85対117の大敗を喫して銀メダルとなったが、ペトロビッチは24点、5アシスト、4スティールでチームを牽引。なかでも、前半、ペトロビッチが3ポイントショットを成功させた直後にジョーダンの長いパスをスティール、そのままボールプッシュ後に躊躇することなく3ポイントショットを打って決めたシーンは、多くのバスケットボールファンの記憶に残っている。

【ひとりで112点をマークした試合も】

 旧ユーゴスラビア(現クロアチア)のシベニクで生まれたペトロビッチは、兄のアレクサンダルとともにバスケットボールに情熱を注いだ幼少期を過ごす。学校に行く前の早朝、昼、夜とシューティングやボールハンドリングといった練習を毎日欠かせずに行なうだけでなく、敗戦後にひとりで体育館に残って練習するくらい、負けず嫌いな少年だった。アレクサンダルは弟について、「ワーカホリックで、熱狂的なバスケットボール中毒なんだ。何時間も体育館で過ごすだけでなく、オフは1日もない」と話す。

 15歳でシベニカのトップチームでプレーするようになったペトロビッチは、在籍2年目からチームの中心選手として活躍。1982−83シーズンには1試合平均24.5得点を記録すると、19歳で出場した1984年ロサンゼルス五輪で平均17.5得点をマークする活躍でユーゴスラビアの銅メダル獲得に貢献。五輪後にシベニカからシボナ・ザグレブに移籍すると、27試合の出場で平均32.5点と大活躍のシーズンを過ごした。

 40点、50点が普通と言われるくらいのスコアラーに成長したペトロビッチは、1985年10月5日にシボナが158対77で大勝したオリンピア戦で112点をマーク。これは当時のユーゴスラビアにおける1試合史上最高得点であり、フィールドゴールを60本中40本成功させていた。そのうち3ポイントショットが10本、フリースローはミスなしで22本決めたのである。

 高い得点能力に加え、トリッキーなアシストなど創造性に富んだプレースタイルを持っていたことから、ペトロビッチは『バスケットボール界のモーツァルト』と呼ばれていた。この試合の映像は残念ながら残されていないが、クロアチア代表としてバルセロナ五輪でも一緒にプレーしたストヤン・ブランコビッチは、次のように語っている。

「あんなのは見たことがない。ドラジェンはボールを扱う魔術師だった。あの試合は彼が記録した得点だけでなく、プレーの仕方でも永遠に記憶されるだろう」

 1986年にポートランド・トレイルブレイザーズから3巡目60位でドラフト指名されたが、ペトロビッチのNBAデビューは1989−90シーズン。ユーゴスラビア代表として1988年のソウル五輪で銀メダル、1989年のユーロバスケットボール(欧州選手権)で金メダルを獲得したあとだった。

 しかし、ブレイザーズではクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターという優秀なガードが先発を務めていたために出場機会が少なく、ペトロビッチは不満の日々を過ごすことになる。1990年の世界選手権でユーゴスラビアの金メダル獲得の原動力になったが、2年目の1990−91シーズンも出場時間0分が20試合を数えるなど、事態は悪くなるばかりだった。

 1991年1月23日、ペトロビッチはデンバー・ナゲッツを絡めた三角トレードで、ブレイザーズからニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン)に移籍。2日後のロサンゼルス・レイカーズ戦で14点を記録したのを皮切りに、43試合で1試合平均12.6得点をマークした。

 ケニー・アンダーソン、デリック・コールマンとネッツを牽引するトリオを構成したペトロビッチは、2シーズン連続で平均20点以上の数字を残す。1993年1月24日のヒューストン・ロケッツ戦でNBA自己最多となる44得点を記録するなど、オールスターのガードが相手であっても、アグレッシブに得点を狙いにいく選手として知られるようになった。

 1992−93シーズンのオールNBAサードチームに選出されたペトロビッチについて、ジョーダンはこんなコメントを残している。

「ドラジェンは競争心の強いすばらしい選手だ。コート上では常にベストを尽くし、挑戦から決して引き下がらなかった。彼は私が対戦したなかで最高のシューターのひとりであり、コートのどこからでも得点できる選手だった」

【28歳の若さで亡くなる】

 2シーズン連続でネッツのプレーオフ進出に貢献し、これからが全盛期と期待されたペトロビッチだったが、1993年6月7日の夕方にまさかの最期を迎えてしまう。クロアチア代表としてユーロバスケットの予選を戦ったあと、ペトロビッチはドイツのフランクフルト乗り継ぎでザブレブに向かう飛行機に搭乗せず、ガールフレンドが運転する車で移動。しかし、悪天候が災いし、車が高速でトラックに激突する事故が発生すると、助手席で眠っていたペトロビッチは頭部を強打し、28歳の若さで亡くなってしまったのである。

「そのニュースを聞いた時、私は信じることができなかった。まるで私の一部が奪われたようだった。ドラジェンは単なる兄弟ではなく、私にとって最高の親友だった」とは、兄のアレクサンダル。ペトロビッチの死は家族だけでなく、クロアチアの国民、世界中のバスケットボールファンを悲しませた。ペトロビッチの葬儀には10万を超える人たちが参列したという。シカゴ・ブルズの第2次黄金期を支えた、クロアチア出身のトニー・クーコッチは次のような言葉を残している。

「葬儀はドラジェンが世界に与えた影響の証しだ。世界中から人々が彼を偲んで集まった。誰もがとても感情的になってしまう日だった」

 ネッツは11月3日にペトロビッチの背番号3を永久欠番とし、2002年にバスケットボール殿堂入りを果たした。

 悲劇の死から31年が経過した現在、NBAには数多くのヨーロッパ出身の選手がプレーしている。NBAのバスケットボールをグローバル化させた先駆者として、ペトロビッチが多くのヨーロッパ出身の選手に道を開いたのは間違いない。

【Profile】ドラジェン・ペトロビッチ(Drazen Petrovic)/1964年10月22日生まれ、ユーゴスラビア・シベニク出身。1986年NBAドラフト3巡目60位指名。28歳没。
●NBA所属歴:ポートランド・トレイルブレイザーズ(1989-90〜90-91途)―ニュージャージー・ネッツ(90-91〜92-93)
●NBA王座:0回
●五輪代表歴:1984年ロサンゼルス五輪(3位/ユーゴスラビア)、92年バルセロナ五輪(2位/クロアチア)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)