阪神甲子園球場が8月1日で開場100周年を迎える。本拠地とする阪神タイガースは1935年の球団創設以来、数多くの名場面、名勝負を繰り広げてスタンドを沸かせてきた。阪神生え抜き選手で初の通算2000安打を放った藤田平氏(76)=デイリースポ…

 阪神甲子園球場が8月1日で開場100周年を迎える。本拠地とする阪神タイガースは1935年の球団創設以来、数多くの名場面、名勝負を繰り広げてスタンドを沸かせてきた。阪神生え抜き選手で初の通算2000安打を放った藤田平氏(76)=デイリースポーツ評論家=が、甲子園球場の思い出を語った。

  ◇  ◇

 もう60年前になるんやね。甲子園の土を初めて踏んだのは市立和歌山商(現市立和歌山高)時代の2年春(1964年)で、市和商が初めて甲子園に出た大会。開会式でグラウンドがとんでもなく広く感じた。お客さんも大勢いてね。だけど開会式直後の初戦で完封負け。だから、すぐ学校へ帰ることになった。

 そして翌年の選抜にも出場。決勝まで行けたから思い出深いね。私は2回戦の中京商戦で1試合2本塁打。1本目はランニング2ランで、あの頃は足が速かったんや。2本目は右翼ポール際。当時は木製バットやけど、打った瞬間、スタンドに入ると思ったね。

 決勝の相手は岡山東商で私は2安打したけど、チームは延長13回サヨナラ負け。岡山東商のエースは平松政次(元大洋、プロ通算201勝)でね、初戦から37イニング無失点中やった。市和商が四回に1点を取って同点に追いついたんやけど、これが40イニング目で許した平松の初失点やった。

 何と言うか、甲子園は独特の緊張感で、市和商はスクイズを2度失敗。相手も必死やからね。負けた時は『また夏に来る』と思っていたから、土も持ち帰らんかった。

 何か縁があったんかもしれんなあ。ドラフト(65年度)で甲子園が本拠地のタイガースが指名してくれたんやから。

 グラウンドキーパーさんも自分たちの仕事に厳しかった。そういった環境もあって私自身も鍛えられた。首位打者のタイトルを決めた試合も甲子園(81年10月12日・大洋戦)。あの時は結膜炎になっていて、家で子供たちにうつさんように病院で寝泊まりしながら甲子園に通ってたね。

 数々の思い出がある。そういえば、80年代前半までスコアボードは職人さんによる毛筆の手書きで電光掲示式への改装の時、記念に『藤田』と記されたネームプレートをいただきに行ったんや。長い年月、ファンを含めた多くの人のさまざまな思いが染みこんだ球場。それが甲子園やと思う。

 ◆藤田 平(ふじた・たいら)1947年10月19日生まれ、76歳。和歌山県出身。現役時代は右投げ左打ちの内野手。市和歌山商(現市和歌山)から65年度ドラフト2位で阪神入団。83年に阪神生え抜き野手で初の2000安打達成。84年現役引退後、95年に阪神2軍監督から1軍監督代行、96年に監督を務める。主なタイトルは最多安打(67年)、首位打者(81年)。現役通算2010試合で打率.286(2064安打)、207本塁打、802打点。