香坂英典が語る広報から見たジャイアンツ(後編)前編:元巨人広報が見た清原和博の苦悩はこちら>> チーム広報、スコアラー、プロスカウトなど、巨人の球団職員として35年勤め上げた香坂英典氏。とくに広報時代は、スター揃いの巨人の選手たちを陰でサポ…

香坂英典が語る広報から見たジャイアンツ(後編)

前編:元巨人広報が見た清原和博の苦悩はこちら>>

 チーム広報、スコアラー、プロスカウトなど、巨人の球団職員として35年勤め上げた香坂英典氏。とくに広報時代は、スター揃いの巨人の選手たちを陰でサポートしてきた。なかでも松井秀喜氏は、入団からメジャーに送り出すまでの10年間、最も近くで成長する姿、または戸惑う姿を見てきた選手のひとりである。そんな香坂氏に松井氏の素顔を語ってもらった。


キャンプ休日にうなぎの炭火焼き体験を行なう松井秀喜氏

 photo by Sankei Visual

【松井秀喜が語った意外な趣味】

── 松井さんといえば、最後まで遅刻魔だったり、夕刊紙でAV批評をやったり、ビッグネームにしては"豪快な一面"を持った選手だった印象があります。

香坂 遅刻は変わらなかったなぁ(笑)。でも、多くはマスコミの人たちに対してのサービスという面では、若いのにドシッと対応していました。そういう態度とは裏腹に、松井は野球人としては成長したいという気持ちが人一倍強かったヤツだったなと思いますね。これは間違いない。高校卒業したての18歳にもかかわらず、いろいろなものを吸収したい、大人になりたいという意思をすごく感じました。それはメジャーに行くまでまったく変わらなかった。人一倍向上心があり、何に対してもどん欲だった。でも、僕がひと言で松井を表現するなら、「気は優しくて力持ち」。このひと言に尽きます。

── それは内面に持つ強い向上心、いわば激しさを秘めながらも、ファンやメディアに対しては驚くほどのサービスで応じるという意味も込められていますね。

香坂 でもね、巨人に入って間もない頃かな......最初の頃は、とても戸惑っていたんです。まあ、中身はまだまだ高校生なんだから仕方なかったかもしれないけど、ある雑誌の取材で趣味は何かという質問に対して、彼は「腕時計集め」って答えたんです。高校を卒業してまだ少ししか経ってない人間が時計を集めるってどう思います? というかファンみなさん、松井の腕時計収集って知っていましたか。

── そのイメージはまったくないです。

香坂 でしょ。そもそも時計の話なんてしたことなかったから、すごく意外でね。取材後に本人に聞いたんですよ。「おまえ、本当に趣味が時計集めなの?」って。そしたら本人、しっかりとした答えはなかったけど、本音で言ったわけじゃないと感じたんです。

── 質問者にあわせたリップサービス?

香坂 というのも、入団当初はほんと質問者を困らせるような受け答えも多かったんです。「目標とする選手は?」と聞かれても「とくにいません」とか、「今の巨人をどう見ている?」みたいな質問にも「いえ、とくにすごいとは思いません」というように素っ気ない。そんな取材対応のなかで、「時計集め」って出てきたんで、本当かなと思って聞いたわけです。ただ驚いたのは、それ以後、時計集めなんてひと言も言わなくなったんです。

── つまりプロに入ってまだ間がなく、自分になにを求められているか、どう主張すべきか、戸惑っていた時期ということですね。

香坂 断言はできませんが、自分がどうあるべきか、いろいろと考えていたことは間違いないでしょう。こんなこともありました。ある時、「お金は大事だよね」って話になったんです。そりゃ大事だけど「なぜ?」と聞いたら、「将来のためにも」って。たしかにそうかもしれないけど、ものすごい注目を浴びて巨人に入った期待のホープ、将来の4番打者ですよ。誰が見ても疑いようのない素質を持った若者が、将来を切り開いていこうという時にお金の話なんてしなくてもいいんじゃないかと言ったら、彼はそれ以来、一切お金の話はしなくなりました(苦笑)。

── 人柄というか、松井さんはものすごくふつうの人なんですかね。

香坂 ふつう?......そうかもしれない。やさしい男だと思います。ユーモアのある楽しいヤツだったなぁ。プレーヤーとして闘争心は強く、勝負に厳しく、抜群に記憶力がいい。そして陰の努力を惜しまない。

── じつにふつうの人だ(笑)。

香坂 でもね、巨人というチームに入って、毎日、数万人という観客のなかでプレーして、とくにプロ入りして間もない頃は打てない時期もあった。高校を卒業してから環境の変化に追いつくのも精一杯だっただろうし、考えだって追いつかなかったかもしれない。そのなかで自分を見失わず、あそこまで成長したのは、やはりふつうの人ではないですよ。

【巨人・松井秀喜監督はあるか?】

── そんな松井さんも、「松井秀喜を演じるのは難しい」とおっしゃったとか。奇しくも、長嶋さんと同じ言葉を漏らしていました。

香坂 そうです。結局、自分の置かれた場所でどうやって生き抜いていくべきなのか、ずっと考えていたということですね。入団したチームが巨人軍だったんですから。賽は投げられた......です。

── 松井さんは子どもの頃、阪神のファンだったというのは有名な話です。もし阪神に入っていたら、あるいは阪神でなくても巨人以外のチームに入っていたら、あれだけの実績を残したと思いますか。

香坂 もちろんです。たとえ巨人以外のチームでプレーしていたとしても、やはりそのなかで戸惑い、迷い、考え、苦しみながら、ひたむきに彼はじっと自分の将来を見定めていったでしょう。

── そして夢であったメジャーまで上り詰めた。

香坂 本人の意思と努力の結果には違いないけれど、あえて広報の立場でそばにいた僕として感じたのは、ファンのみなさんの応援やマスコミの力も大きかったと思います。そりゃ打てないときは叩かれたこともありましたけど、それも彼が鍛えられたひとつだと思うんです。どんな不調の時も、彼はメディアの前から逃げたことは一度もなかった。メディアのことを「プレス(Press)」とも言うけど、遠慮なく叩くぞという意味だってある。メディアの向こうにはファンがいるわけですから、期待に添えないようなら叩かれてもしょうがない。プロ野球選手にとってはつらいところだけど、それを跳ね返さなくてはいけない。そして選手はより成長もする。プロ野球選手の宿命ですよ。松井は、そうした叩かれることの意味というか、それがプロというものだということを覚悟していたと思う。

── 松井さん、巨人の監督になることはあると思いますか?

香坂 どうでしょうね。

── 誘いがあったとしても、私人としての人生を大切にして固持か。それとも巨人というチームで足跡を残した者の使命として受け入れるか。

香坂 僕には正直、わかりません。松井のユニフォーム姿を再び見てみたいという多くのファンの方がいらっしゃると思いますが、その気持ちは僕も同じです。ひとりの裏方であった僕は、そこまでしか言うことができません。ただ彼には、これまで彼が歩いて来た野球人生のなかで大事な判断を迫られる時がありました。巨人のドラフト1位指名、メジャーリーグ挑戦、自らが進む道を自分の判断で決断してきた。そして人生の節目としてまた決断すべきタイミングが来たとしても、彼はその判断を間違えたりはしないだろうと思います。なぜなら、判断を誤らなかったからこそ、彼には成功という今があるからです。

香坂英典(こうさか・ひでのり)/1957年10月19日、埼玉県生まれ。川越工業高から中央大を経て、79年ドラフト外で巨人に入団。4年目の83年にプロ初勝利を挙げるも、翌年現役を引退。引退後は打撃投手をはじめ、スコアラー、広報、プロスカウトなどを歴任。2020年に巨人を退団し、21年秋からクラブチームの全府中野球倶楽部でコーチを務めている