欧州サッカースタジアムガイド2024-2025第2回 オリンピアシュタディオン Olympiastadion ロンドンのウェンブリー・スタジアム、マンチェスターのオールド・トラッフォード、ミラノのジュゼッペ・メアッツァ、バルセロナのカンプ・…

欧州サッカースタジアムガイド2024-2025
第2回 オリンピアシュタディオン Olympiastadion

 ロンドンのウェンブリー・スタジアム、マンチェスターのオールド・トラッフォード、ミラノのジュゼッペ・メアッツァ、バルセロナのカンプ・ノウ、パリのスタッド・ドゥ・フランス......欧州にはサッカーの名勝負が繰り広げられたスタジアムが数多く存在する。それぞれのスタジアムは単に異なった形状をしているだけでなく、その街の人々が集まり形成された文化が色濃く反映されている。そんなスタジアムの歴史を紐解き、サッカー観戦のネタに、そして海外旅行の際にはぜひ足を運んでもらいたい。連載第2回はオリンピアシュタディオン(ドイツ・ベルリン)。


1936年に開場したオリンピアシュタディオン

 photo by ロイター/アフロ

 7月15日、4年に一度の欧州王者を決めるユーロ(欧州選手権)2024の決勝がドイツの首都ベルリンにあるオリンピアシュタディオンで行なわれ、スペインとイングランドが戦い、2―1でスペインが優勝を飾った。

 ユーロだけでなくワールドカップ(W杯)の決勝も行なわれてきたドイツのスポーツの中心地であり続けているオリンピアシュタディオン。スタジアムのあるベルリンはドイツの北東部に位置し、ポーランドとの国境から60kmほどの距離に位置する。13世紀頃から都市として整備され、1701年に成立したプロイセン王国、ドイツ帝国、ヴァイマール共和国、ドイツ国と首都であり続けてきた。だが、第2次世界大戦後、東ドイツの首都である東ベルリンと、西ドイツの飛び地である西ベルリンに分けられた。そして1961年に東から西へ人の移動を制限するため、一夜にしてベルリンの壁が作られ分断、時代の流れに翻弄される。

 だが、1990年に統一されてドイツ連邦共和国となると、再びベルリンは首都となった(西ドイツの首都はボン)。多くの美術館や博物館を有し、ベルリン映画祭や現代アートなど芸術都市としての顔も持ち、現在では欧州有数の政治、経済、文化の中心的な都市である。

 このスタジアムはベルリン中心部から地下鉄で20?30分ほどの場所にあり、ドイツの歴史を語る文化財としての一面も持っている。その名前のとおり、このスタジアムはW杯のために建てられたものではなく、もともとナチス政権下に、1936年のベルリン五輪のために建築された。階段で囲まれた楕円形の様式は、古代のオリンピック競技場を模したもので、マラソン競技の選手が通過するための「マラソンの門」も作られた。また聖火リレーが初めて行なわれたのもこの大会だった。

 もちろん、サッカー競技の決勝もこのスタジアムで開催され、イタリア王国(当時)が、欧州最強の呼び声高かったオーストリアを2-1で破って優勝した。また日本がオリンピックに初めて参加したのが、このベルリン五輪だが、サッカー日本代表は今はなきヘルタ・プラッツ・スタジアムで1戦目に優勝候補のスウェーデンと対戦。前半を終了して0-2で負けていたが、後半一気に3点を取って逆転勝利し、今でもこの一戦は「ベルリンの奇跡」と名高い。

 1938年になるとスタジアムには防空壕と地下道が作られ、軍事兵器の製作所となった。そのため第2次世界大戦の終戦間際には、ソビエト連邦に一時占領され、その後、連合軍に接収された。戦後、比較的損傷の少なかったスタジアムは、1949年になり、ナチス政権の過ちを忘れないための記念碑として、重要文化財の指定を受けて西ベルリンに返還されている。

 1974年、サッカーW杯の西ドイツ大会時にも、当然、開催地として選出された。だが、当時の西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスの3カ国により管理されていたため、このスタジアムで開催された3試合(開幕戦の西ドイツ対チリ、東ドイツ対チリ、オーストラリア対チリ)はW杯で、唯一開催国以外で行なわれた試合とみなされている。

 2000年、2006年のW杯の開催地のひとつとして、このスタジアムも選出されたが、老朽化が進んでいたため改修が決まった。しかし、重要文化財指定を受けており、外観と基礎を残す必要があったため、あえて陸上トラックを残し、その欠点を補うために、ピッチ全体を約2.5m掘り下げて観やすさを確保。また、スタジアムの外観を損ねないよう観客席全体を覆う屋根の設置にも気を遣い、20本の細い支柱で支えることになった。

 結局、改修は4年の歳月と、約350億円の費用がかかったという。ちなみに、このスタジアムの特徴のひとつとなっているのが、ゴール裏の屋根に一部分だけ開いている部分で、それが「マラソンの門」と聖火台がある場所だ。特に改修に手間と費用がかかったという門の上部にはベルリン五輪の金メダリストの名前が刻まれており、水泳の200m平泳ぎで金メダルを取った水泳日本代表の故・前畑秀子の名もある。

 ドイツ国内の全座席指定のスタジアムとしては最多の74,475席という収容人数を誇るオリンピアシュタディオン。さらにビッグゲームが行なわれる際は、マラソン・アーチの上に移動式グランドスタンドを追加することで、収容人数を一時的に拡大することもできる。

 サッカーのW杯以外にも、オリンピアシュタディオンは2009年には世界陸上選手権、2011年には女子サッカーW杯開幕戦、そして2015年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝など、ドイツのサッカー、そしてスポーツシーンにとって重要なスタジアムとして歴史を刻み続けてきた。そしてユーロ2024でも、決勝を含む6試合が行なわれた。

 また国際シーンだけでなく、国内リーグであるブンデスリーガが創設された1963年から現在まで、奥寺康彦、細貝萌、原口元気など、日本人選手も多くプレーしてきた「老貴婦人(Die Alte Dame)」ことヘルタ・ベルリンの本拠地として使われてきた。

 1892年創設の伝統あるクラブであるヘルタは、東ベルリンで16~17歳の少年たちによって誕生。何度かの合併を経て、1923年から現クラブ名となった。創設者のひとりによって決められた「ヘルタ」という名は、もともと北欧神話やゲルマン神話に出てくる神の名だが、その創設者が父親と一緒に乗った蒸気船の名前に由来しているという。エンブレムやクラブカラーもその船にちなんでいる。1930年代こそ2度の優勝を経験しているものの、まだブンデスリーガでの優勝はない。

 ただ60年以上に渡りオリンピアシュタディオンをホームとしてきたヘルタだが、その関係は今微妙な状況にある。ブンデスリーガで唯一専用スタジアムを所有せず、集客が乏しいクラブは、より小規模な自前のスタジアムへの移転を検討。しかしベルリン州政府はこれを阻止するためにオリンピアシュタディオンをサッカー専用競技場に改修しようとしたものの、費用面や陸上競技大会の実施なども考慮して、結局はトラックを外す計画は撤回された。

 ヘルタは2025年にオリンピアシュタディオンとの契約が切れる時点で、新スタジアムへの移転を考え、45,000人収容のスタジアムを作ろうと模索しているが、現在のところ進展は見られていない。いずれにせよ、政府や議会、ファンも巻き込んでその動向には注目が集まっている。

 今ではビールとソーセージを片手に、熱狂的なファンが集う場所となったが、痛ましい過去と、輝かしいスポーツの栄光が混じり合う、複雑な歴史をもつオリンピアシュタディオン。1936年のベルリン五輪からちょうど100年後にあたる2036年に、再び夏季オリンピックの開催地に名乗りをあげているように、ドイツにとって忘れてはならない歴史と、スポーツファンの栄光を物語るスタジアムとしてベルリンの地にあり続ける。