東京五輪の女子サッカーでは試合前に差別への抗議へのアクションが見られた photo by Getty Images検証・オリンピックの存在意義07〜為末大インタビュー中編〜 オリンピックと日本社会の関わりについて、オリンピック3大会連続出場…


東京五輪の女子サッカーでは試合前に差別への抗議へのアクションが見られた

 photo by Getty Images

検証・オリンピックの存在意義07〜為末大インタビュー中編〜

 オリンピックと日本社会の関わりについて、オリンピック3大会連続出場経験のある為末大氏は今、どのように考えているのか。

 全3回の2回目は、為末氏に自身の現役時代と今を比較しながら、アスリートが社会的発言を行うことの是非、メダル至上主義が及ぼす問題、そして日本のスポーツ教育が目指すべき方向などについて、深く考察していただいた。

>>前編「レガシー、アスリートファーストとは何だったのか?」

【自分の立場をはっきり発言することの重要性】

――アスリートの社会的発言に関しては、たとえば東京オリンピックの女子サッカーで各国代表が差別反対の意思表示として試合前にピッチに膝をつくアクションを披露し、日本の選手たちも賛同して同様の行動を取りました。そのような言動に対して、アスリートも社会の矛盾や人権問題にどんどんコミットするべきだという肯定的な捉え方がある一方、オリンピック憲章の規則50には政治的な言動を禁止するという条項があります。人権と政治的発言の微妙で難しい解釈について、為末さんはどう考えていますか。

為末:要するに、選手の影響力が世界の分断を加速させる可能性をIOC(国際オリンピック委員会)は懸念しているのだと思います。でも、それは選手たちの口を塞ぐ行為にもなりかねないので、「そのような抑圧が許されていいのか」という考え方があるのも理解できます。

 たとえば近代芸術の世界では、社会の課題に批評的な視点を与えようとするアートが多い一方で、ただただ美しいものの価値を讃える芸術作品もあります。表現に対する人類の追求って、この両極端の間をずっと揺らぎながら行き来してきた気がするんです。

 私は、「スポーツの力を使って世の中をよくしていこうとする言動は、とてもいいことだ」とずっと思ってきたのですが、今のような世の中だと「生きているってすばらしい。スポーツは、生命の祭典なんだ」くらいに抽象度を上げたほうがいいのかもしれない、とも思うようになりました。選手たちがコメントを抑制したほうがいいとは思いませんが、「生きているって最高だ」くらいの抽象的なことばのほうが、むしろ人々に強く響くのではないか、とも思います。

――特にパリオリンピックの場合だと、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナの問題などもあって、非常にデリケートな大会になりそうです。

為末:たとえばミックスゾーン(取材エリア)では「あなたはこの問題についてどっちの立場ですか?」と、踏み絵のような質問が出てくるかもしれません。だから、選手たちは自分が何を発言するのか、あるいはしないのか、というトレーニングが必要だと思います。日本のメディアトレーニングは、何も言わない、発信をしない、という部分に特化されがちですが、グローバルな舞台だと「あなたの言葉でコメントを聞かせてよ」というスタンスなので、揺るぎない考えがある場合には意見を述べ、そうじゃないことに関しては「まだ自分の中で答えが出ていない」とハッキリ言えるように練習することが必要だと思います。

――特に日本の選手は、君子危うきに近寄らず、のようなアプローチが多いですね。競技団体もそのような質問を好まない傾向があるようにも思います。一方でヨーロッパのメディアは踏み込んだ質問もするし、選手たちも自分の意見を率直に話す印象があります。

為末:日本の選手は言語の壁が防波堤になっていたところもありますが、今は多言語を操る選手も多いし、今後は技術的に同時自動翻訳なども出てくると思うので、国際感覚がこれまで以上に求められると思います。

「どうすれば速く走れるのか?」だけを考えていた我々の牧歌的な現役時代、20年くらい前と比較すると、今は本当に難易度が上がっている、というのが実感です。競技だけの場所に選手たちを置かせてあげたい気持ちもありますが、これはひとりの大人として対応せざるをえないことだとも思います。

【「メダル獲得=競技の発展」は事実ではなかった】


為末氏は、大舞台で感じた葛藤や矛盾を持ち帰る役割もアスリートに求められる時代になったと指摘する

 photo by Murakami Shogo

――パリオリンピックでは、選手たちはきっとさまざまな葛藤に直面するでしょう。そこで感じることや経験することも、スポーツが見せてくれるもののひとつでしょうから、それはぜひ伝えてほしいと思います。

為末:オリンピアンの仕事は、オリンピックに至る道とそこでパフォーマンスをすること、そして、そこで感じたものを社会に還元すること。その3つだと思います。3つ目の還元する部分は、以前なら「目標に向かって頑張ることの大切さ」といった比較的普遍性のあるメッセージでしたが、現代では「世界に触れた時、皆がどんな葛藤や矛盾を感じて悩んでいるのか」といったことを持ち帰る役割が加えられているように思います。パリオリンピックは歴史的にも象徴的な大会になるでしょうから、選手たちはそこで経験したものをぜひ還元してほしいと思います。

――選手たちに求められるものとして「ロールモデル」ということばがありますが、為末さんの時代と今の時代では、「ロールモデル」のあり方は変わってきているのでしょうか?

為末:すごく変わったと思います。アスリートとひと口に言ってもさまざまで、真面目な人からスポーツで社会にぎりぎり踏みとどまっているような人まで幅があって、その多種多様さが面白かった。今の選手たちは早い段階から社会に触れてSNSも使いこなしているので、社会に入るという意味ではしっかりした領域の人が増えて、非正統派領域というか(笑)、ぶっ飛んでいる領域の人は明らかに減っています。スレスレの領域をある程度許容したい思いもありますけれども、いずれにせよ今は圧倒的に社会性のある人が多いと思います。

――選手に求められるもの、ということでは、メダル至上主義がずっと批判されてきました。為末さんも現役時代に実感してきたと思いますが、選手たちはメダル至上主義をどう受け止めているのでしょうか。今の選手たちも、過度な期待とプレッシャーに苦しんでいるのですか?

為末:メダル至上主義がどこから生まれるかというと、メダルがオリンピックの象徴になり、メディアもそれを象徴的に扱い、社会もそれを象徴として見ていて、だからこそ、選手はあれが欲しいと思うシステムになっているからだと思います。

 では、それを止めるボタンがどこかにあるのかというと、実はあまりないような気もします。メダル至上主義の悪い面は確かにあるけれども、モチベーションになる面もあるし、勝ち負けがある以上、メダルを取れるかどうかの境目ができてしまうのは仕方がないことかもしれません。

 これは選手の側よりも、メダル以外にスポーツの価値を説明しきれない協会(競技団体)の側に課題がある気がします。昭和の時代は「メダルを取るとその競技が人気になり、補助金も協会に入って競技界全体が潤う」という仕組みでやってきたのですが、近年は我々の世代が少しずつ重要なポジションに就き始めて、メダル数と競技人口や売上増加の間にはあまり相関がないことがわかってきました。つまり、メダルを取るとそのスポーツが発展する、というロジックはもはや通用しないわけです。だから、マインドセットを変えなければいけないし、それがメダル至上主義から変わっていくきっかけにもなるのではないかと思います。

――そのマインドセットは変わりつつあるんですか?

為末:私たち世代は「活躍しても、結局競技人口は増えなかったね」が合言葉になっています。あまり人気にならなかったね、会場にも人が来なかったね、始める人もそんなに増えなかったね、ということを我々世代のメダリストは皆が経験してきました。「......ということは、選手個々人よりも構造の話じゃないの?」という理解なので、45歳前後の元アスリートたちは、構造を変えていかなければならないという認識だと思います。

【問題は、低年齢からの勝利至上主義】

――鶏が先か卵が先か、という話かもしれませんが、報道はどうしてもメダル中心になる傾向があります。元アスリートの視点からはやりすぎだと感じるのでしょうか? あるいは、こんなものだろうと割りきっているのですか。

為末:こんなものだろうという思いも、半分くらいはあります。でも、本当にメダルだけに注目するのであれば、競技人口が世界的に少ないなどの条件で強化費に対してメダルが取りやすい競技があるんですよ。すると、そこに資金を投下することが最適解になる。でも、そうなると強化費の配分がいびつに偏ってしまう。

 だから、社会にメダル以外の価値がもう少し浸透していったほうがいいと思います。だけど、メダル至上主義なのは世間よりもむしろスポーツ界なんですよ。メダルの価値をあまりに重く置きすぎるあまり、小学生までが勝利至上主義に染まってしまう印象がありますね。

――その傾向は今も連綿と続いているんですか?

為末:むしろ加速していますね。

――とはいえ、たとえば全柔連のように小学生の全国大会を廃止する動きも出てきているようですが。

為末:そうですね。あの決定は、以前よりも勝利至上主義が加速してきたから止めたという側面もあったのではないかと思います。

 最後のところが勝利至上主義になるのは、仕方ないと思うんです。頂点を争う選手たちは、やはり誰しも勝ちたいですから。問題は、低年齢で勝利至上主義になってしまうことで、小学生からそれだと悪影響のほうが大きいので、高校くらいまでは勝利の要素は半分以下に抑えて、体を動かすことが楽しいとか、友達とスポーツするのがいい、ということに重点を置くべきだと思います。

――そういう風になっていきますか?

為末:私はスポーツでも教育の領域で活動しているので、その方向で進めていくべきだと思っています。中学校ぐらいまでは興奮せず楽しくスポーツをできるように作り変えて、勝つことだけが目的ではない、すべての子どもにとっていいスポーツのあり方を文化として広げていくべきだろうと思います。

 時間はかかるかもしれませんが、やればきっと変わっていくと思いますよ。私自身はその土壌作りに取り組んでいきたいですね。

――バレーボール界では「監督が怒ってはいけない大会」を益子直美さんが始めるなど、子どもたちが楽しくスポーツに接する取り組みは着実に裾野を広げているようです。

為末:我々がいまやるべきことは、そのような個別の取り組みに「いいね!」を押していく活動だと思うんですよ。つまり、「益子さん、いいですね!」「益子さんがやっていることはすばらしいですね!」と、近い考えを持っている人たちが積極的に関わりにいくことが重要なのだと思います。

つづく

>>前編「レガシー、アスリートファーストとは何だったのか?」

【Profile】為末大(ためすえ・だい)/1978年生まれ、広島県出身。現役時代は400mハードル日本代表選手として多くの世界大会に活躍し、2001年エドモントン、05年ヘルシンキの世界陸上選手権では銅メダルを獲得。オリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場を果たした。現在(2024年7月15日)も400mハードル日本記録(47秒89/2001年樹立)を保持している。2012年シーズンを最後に現役を引退後、現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。