夏の高校野球シーズン真っただなか。今年もたまに、灼熱(しゃくねつ)のさがみどりの森球場に出かけ、取材している。夏の大会を主催する朝日新聞社の記者としては、定年間際の高齢でも、手を抜けない重要行事だ。 40年前、佐賀の高校野球はどうだったか…

 夏の高校野球シーズン真っただなか。今年もたまに、灼熱(しゃくねつ)のさがみどりの森球場に出かけ、取材している。夏の大会を主催する朝日新聞社の記者としては、定年間際の高齢でも、手を抜けない重要行事だ。

 40年前、佐賀の高校野球はどうだったか。当時の佐賀球場は、現在のみどりの森球場より4キロほど東の佐賀市街地にあった。記者室に冷房機器はなく、汗と土ぼこりにまみれて原稿用紙と格闘した覚えはある。

 ただ、私が入社した1984年のスクラップ帳に、高校野球の記事はあまり貼っていない。新人記者の夏は警察担当が主で、高校野球は先輩の手伝い。スタンドをかけ回って、各校の応援ぶりを記事にするぐらいだった。

 敵チームの「大根踊り応援」に対抗して、段ボール製の巨大な手作り大根おろし器を持ち込んで応援したとか、夏休み最初の日曜には3千人も来場者があった、とか。

 この年の佐賀代表だった唐津商について、残念ながら記事はほとんど書いていない。ただ、「エンヤー、エンヤー」と威勢のいい応援のリズムが玄界灘の荒波を連想させ、すっかり魅了された。

 私が高校野球担当になったのは、記者2年目の85年。春から準備を始め、夏が終わるまで高校野球漬けだった。優勝チームと一緒に阪神甲子園球場にも行った。

 その年の佐賀代表は佐賀商。佐賀大会では苦労しながらも、古豪の底力を発揮して優勝した。甲子園では左打者、右打者を交互に並べた「ジグザグ打線」の攻撃力を売りに、みごとに初戦を突破。だが、残念ながら2戦目で強豪の東北(宮城)に敗れた。

 この年の佐賀商は、県内で「名将」として尊敬を集める板谷英隆監督(故人)だった。そして、野球部長が田中公士さん。そう、9年後の94年、佐賀商を率いて深紅の優勝旗を初めて佐賀に持ち帰った監督だ。

 それまでの佐賀勢は、82年夏の1回戦、最後の打者に投げた死球で夏の甲子園史上初の完全試合を逃した佐賀商・新谷博投手など、注目選手もいた。だが、全国的に脚光を浴びたのは、94年夏の佐賀商と、2007年夏の佐賀北の全国制覇だ。

 いずれも、劇的な満塁本塁打で試合を決める印象深い決勝だった。当時、佐賀県外で勤務していた私も、優勝の瞬間、テレビの前で思わずガッツポーズをしたことを覚えている。佐賀商優勝から30年。そろそろこの夏あたり、再びガッツポーズしたいものだ。

■85年の甲子園、佐賀商球児と一緒に興奮した「KKコンビ」

 1985年夏の甲子園の話題は、何と言ってもPL学園(大阪)の「KKコンビ」。桑田真澄投手と清原和博選手は、佐賀の高校生たちにとってもあこがれだったようです。

 試合本番前、甲子園のスタンドを見学したときのこと。佐賀商の選手たちはPL学園の一団を見つけ、「桑田がおる!」「清原も!」と大興奮していました。

 私はそんな彼らを見ながら、WBC決勝前に大谷翔平選手がチームメートに言ったように、「あこがれるのはやめましょう。同じ高校生じゃないか」とでもアドバイスできればかっこよかったのでしょうが、高校生たちと一緒になって喜んでいた気もします。

 39年ぶりに、83歳になった田中さんを訪ねました。1980年に佐賀商の野球部長に就任。他校に異動した板谷監督の後を継ぎ、87年から監督に。でも、戦績は必ずしも芳しくありませんでした。甲子園出場は果たせても、1、2回戦で敗退。OBからは「甲子園に行くだけではだめ。勝たんと」と言われ続けたといいます。

 94年3月には、悩んで「自分では勝てない。更迭してほしい」と校長に直訴したそうです。でも、「あと1年頑張って」と励まされて続投。その年の夏、とうとう全国で優勝するチームを育て上げたのでした。

 部長時代から研究熱心で、自らノックバットを振って選手を鍛えていた姿が、目に焼き付いています。その地道な努力が、選手たちを大きく育てたのだろうと思います。(野上隆生)