(第38回全国高校野球選手権大会 準決勝 米子東1―2岐阜商) 「今でも覚えている。相手チームへの声援が、銀傘(甲子園球場の内野席を覆う屋根)に反射してマウンドに『うわーっ』と押し寄せる。何回か甲子園に行ったけどあんなこと経験ない」 甲子…

 (第38回全国高校野球選手権大会 準決勝 米子東1―2岐阜商)

 「今でも覚えている。相手チームへの声援が、銀傘(甲子園球場の内野席を覆う屋根)に反射してマウンドに『うわーっ』と押し寄せる。何回か甲子園に行ったけどあんなこと経験ない」

 甲子園に春夏4回出場した岐阜商(県岐阜商)のエース清沢忠彦さん(86)=東京都世田谷区=は振り返る。「観衆の9割が米子東を応援していたと思う」

 1956年の第38回全国選手権大会。8回目の出場の米子東(鳥取)は、戦後の山陰勢として初めて4強へ駒を進めた。引っ張ったのがエース長島康夫さん(87)=横浜市戸塚区=だった。

 初戦の別府鶴見丘(大分)を12奪三振完封。2戦目の準々決勝では、優勝候補の中京商(現・中京大中京、愛知)を5奪三振完封。全国の高校野球ファンは長島さんの快投に熱狂した。

 当時の朝日新聞鳥取版は、岐阜商との準決勝当日の鳥取県米子市内の様子を「ラジオの前にクギづけにされて日曜日というのに街は人通りがなくなり、商店も開店休業の形だった」と伝える。

 「野球にのめり込むという気持ちはなかった」という長島さんだが、練習には必死に取り組んできた。2年生のとき、当時関西大生で後に阪神タイガースで活躍する村山実氏がコーチに訪れ「対角線上のピンポイントコントロール」をたたき込まれた。「1日250球、300球と投げた。とにかく必死に一生懸命でした」

 準決勝は長島、清沢両エースの息詰まる投手戦となり、1―1で延長へ。十回表、米子東は無得点。その裏、岐阜商の2死三塁の場面で清沢さんが打席に立った。

 「外すつもりで投げた」(長島さん)というカーブが真ん中やや高めに入る。打球は「詰まり気味」(清沢さん)で二塁方向へ。二塁手の吉田征弘(ゆきひろ)さん(85)=名古屋市名東区=は、このときの場面をよく覚えている。

 「清沢さんは左打ちだから一塁側にシフトしていた。そしたらセンター方向に打球が来てね」。打球は外野前に抜けた。長島さんは試合終了後、ベンチで監督と部長に「すみませんでした」と頭を下げた。涙がどっとあふれた。

 長島さんは卒業後、プロの誘いを断り富士製鉄(現日本製鉄)に就職、社会人野球で活躍。清沢さん、吉田さんはともに慶応大、住友金属と進んだ。あの試合から68年。多くの友が他界したが、3人は今でも連絡を取り合う仲だ。

 実は長島さんは、本来ならこの年の大会に出場できないはずだった。

 幼少時、父の転勤で日本占領下の朝鮮半島へ。戦時下で父は行方不明になり、収容所で姉を失った。46年9月に母や妹と命からがら博多港に帰国。貧しく苦しい幼少期を過ごした。

 小学校には2年遅れで編入し、高3の時はすでに19歳。大会規定の年齢制限を超過していた。一度は甲子園のマウンドに立つ夢はあきらめたが、学校関係者らによる嘆願によって、日本高校野球連盟から特例で出場を認められていたのだ。

 長島さんは幼少期の苦難、特例で出場できた甲子園、プロか大学か就職かで悩んだことを回想し、「もっとこういう道があった、というのは誰にも分からない。今を満足しています」と話す。(奥平真也)

◇1956年の主な出来事

【国際】

第2次中東戦争勃発

【国内】

日本の国連加盟

【高校野球】

〈春〉中京商(愛知)が2度目の優勝

〈夏〉平安(京都)が3度目の優勝