『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第9話 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、…

『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第9話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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第9話

 ライバル

 秋口になり、飛鳥井陸はカナダ、バンクーバーでグランプリシリーズ初戦の真っ只中にいた。

 バンクーバーは昼間こそ15度ほどあって過ごしやすかったが、夜は氷点下近くまで冷えた。都内や関西よりも早く冬が来る印象だった。町は中国系などアジアからの移民が約半数を占め、国際色豊かな風景があって、日本人にも親しみやすい。

 バンクーバーは冬のオリンピックも開催されたことがあった。フィギュアスケートは人気スポーツの一つで、大会でも"熱"が感じられる。失敗した選手も励ますような健全な熱は会場にたちまち伝播し、そのおかげで選手はいつも以上の演技を見せる。熱がさらなる熱を生む、熱の法則だ。

 陸はショートが終わって首位に立ち、フリーの最終グループ6分間練習後、バックヤードに戻ってきたところだった。最終滑走までの時間をどう過ごすか。バッグからイヤホンを探して、自分の世界に没入しようとしたところだった。

「陸さぁ、俺と差はないんだから、偉そうにすんなよな」

 三浦富美也が笑みを洩らして話しかけてきた。
 
「あ?」

 陸が応じる。

「囲み取材のあれ、何? 『このまま突っ走って、優勝します。自分の敵は、自分だけなんで』って、どの口が言うのよ。裏で聞いててさ、笑っちゃったってーの」

 富美也は0.53点差の2位で陸を激しく追走していた。ぞんざいで失礼だが、これも彼なりのコミュニケーションだ。

「富美也、年下なのにどうしてそんな口の利き方できるの? 親の顔が見たいもんだな」

 陸は手にイヤホンケースを持ったまま、舌打ちで返した。富美也と話していると調子が狂うから、イヤホンを取り出してつけようとしたが、手元が狂って落としてしまった。

「ショートはさ、花を持たせてやったんだよ。俺のセカンドトーループが3回転のところ、2回転になって、ちょこっと点数が削られたから順位に差が出た。でも、陸は安パイなジャンプで上に行っただけだろ? 先輩だったら、もっと攻めてくださいよ」

 富美也はそう言って鼻を鳴らした。

「お前、もはや、それは挑発というよりも喧嘩を売っているからな」

 陸は睨みつけるように言った。

「おー、こわ」

 富美也は、ふざけて両手で顔を隠すような仕草をした。

「そんなあからさまに、俺が一番、他は一切肯定しない、みたいのをダダ洩れさせて恥ずかしくないの?」

 陸は言動をたしなめた。

「何言ってるんすか? 一番じゃなきゃ意味ないでしょ。俺はそれで勝ち続けてきたしね。前回の世界選手権だって、それで俺が優勝したでしょ?」

「グランプリファイナルも、全日本も、カルガリー五輪も僕が優勝したけどな」

「ハハハ、張り合ってんの? それを言うなら、一個前のデンバー五輪は俺が優勝ね」

 富美也は半笑いだ。

「みんな、お前のそういう態度に辟易してるぞ。いくら強い王者って誇っても、翔平君みたいに人間として尊敬されないと、ひとりぼっちだ」

「弱い友達なんていらないっしょ? まあ、陸はそこそこ強いから、友達にしてやってもいいよ?」

「ならねぇよ」

 陸は舌打ちをした。

「そう言えば、大好きな星野翔平が復帰したんでしょ? 若い頃はいざ知らず、もうあの人の時代じゃないのに」

「呼び捨てやめろ。翔平君はやるぞ。ブロックから全日本まで勝ち上がってきて、同じリンクに立つ」

「近畿選手権? ショートで首位に立っていたけど、70点台じゃ話にならないっしょ」

「今に見てろ」

 陸は睨みつけた。

「何、それ? やっつけられた奴のセリフじゃん! ウケる」

 富美也はそう言って大声で笑いだした。

 陸は一瞥し、イヤホンを耳につけると、距離を取った。平常心を取り戻すため、関節や筋肉をほぐすように動かした。

 富美也の勝利への執念を、陸はリスペクトしている。他の選手を蹴落としてでも、というフィギュアスケーターはなかなか出てこない。そもそも、競技の性質に合わないのである。子どもの頃から絶対的な他者へのリスペクトを教わるからで、勝利に執着する姿勢はむしろ悪徳であり、「表現者でありたい」という旗印が先に来る。失敗した選手に、これだけ拍手が降り注ぐスポーツ競技は唯一無二だ。

 富美也は、異端な王者と言える。

 王者としての虚栄心は突出し、それが限界以上の力を引き出している。口は悪いが、誰よりも勝負に対してストイックで、スケートへの情念を一瞬ですべて燃やし尽くすような演技ができる。結果、一つの大会を戦った後は燃えカスのようになっている。それも、すべて勝利のためなのだろう。
 
「三浦富美也選手、時間です」

 係の人に呼ばれた富美也が、通路に向かう。自分に視線を送っているのは気づいていたが、面倒くさいので無視した。扉が開いた瞬間、観客の声援が流れ込んでくる。地元カナダの選手が高得点を叩き出したようだった。富美也は歓喜している観客を黙らせることに愉悦を感じるタイプだ。
 
 富美也は今でこそ長身で痩身、ダンスアイドルグループのセンターにいそうな風体で、爆発的な女性人気を誇る。女性にだけは優しく振る舞う。もはや教祖的だ。
 
 しかし小学校を卒業する少し前まで、富美也は小柄でずんぐりとした体形だった。スケーティング技術はすでに関係者の間で噂になるほどだったが、体形を揶揄されることが多く、本人はフィギュアの道を断念しようとしていたという。それが福山凌太にセンスを称賛されたことが自信になって、競技を続けているうち、成長期に入って背がぐんぐんと伸び、別人のような見かけになった。
 
 やがて、"ぶっ飛んだ負けず嫌い"という本性が露出した。
 
「子ども時代にコケにされていたことが、富美也の反骨に呪いをかけた」と言われる。

 事実、富美也は当時、自分を馬鹿にした連中を許さないという。悪口を公言して憚らない。何かの拍子に掌が裏返ることも知っているから、周りに対しても異常な敵愾心を持って、勝利だけにこだわり続けるのだ。

「飛鳥井陸選手、時間です」

 陸の順番だ。

 体を揺らしながら会場に入ると、富美也がとんでもない演技をしていることは伝わってきた。会場の人々が目を潤ませ、嗚咽の爆発を必死に抑えている。圧巻のプログラムだったんだろう。フィニッシュポーズ、巨大な感情が一斉に噴き出すような拍手が鳴り響いた。世界中に富美也の熱狂的ファンが大勢いるのだ。

 リンクで声援を浴びる富美也は雄々しかった。王者としての風格を感じさせる。大げさに言えば、生まれ落ちて「天上天下唯我独尊」と唱えた釈迦のようだ。

 しかし富美也と入れ替わりでリンクに入った陸の視界に、それらの光景は入っていない。正しく言うなら、外界で起こっていることを感じられてはいたが、自分の世界にほぼ100%入っていた。外側からは何も干渉されない状況だった。自分だけの領域に入って、それを俯瞰して見つめるもう一人の自分がいた。

 周回を重ねながら、冷たい風を頬に受ける。会場にたゆたう、目に見えないはずの熱気も見える。音も、匂いも、細胞一つひとつで感じられるようだった。五感が痺れるように研ぎ澄まされていた。

「From Japan 、Riku Asukai!!」

 場内の英語アナウンスで、陸はスタートポジションについた。曲は北欧のアーティストが作った「Timelapse」で、衝動を感じさせるバイオリンの旋律に合わせ、動き出す。Timeという時の流れと、Lapseという推移、経過という意味を合わせた言葉で、低速度撮影というスローモーションで映る画像というのか。過去の失われた記憶がゆるやかに流れる情景をインスピレーションに作曲したと言われる。

 陸は振り付けにある細かい時の経過を感じさせる動きを入れ、エッジを倒した丁寧なスケーティングで、両腕を大きく広げた。そして、ゆるやかな時の流れに観客を引き込んでいった。冒頭、大技の4回転ループを音楽に溶け込ませながら決めると、着氷後の流れも完璧。4回転フリップも成功すると、音に激情を込めていく。

 トリプルアクセル+ダブルアクセル+ジャンプシークエンスも隙のないジャンプだった。僧帽筋に力を込め、肩甲骨を隆起させ、腕を翼のように広げる。ステップシークエンスではツイズルを入れながら、音の狂おしさに滑りを重ねた。

 そして後半、もう一つの曲に入る。エストニア人作曲家の「Spiegel im Spiegel」というピアノ曲。いわゆる古楽で、余計なものを省いた単純さを極め、鈴がちりんちりんと鳴る様子を表現。テンポを一定に保つ中、飾りが省かれているからこそ、音そのものに物語を感じさせる。

 陸は音一つひとつを拾うように美しい滑りで、自分の世界に会場の人々を誘う。その静寂の中から、4回転トーループ+3回転トーループとコンビネーションジャンプを完璧に降りた。ゆったりした音楽の中で演技するのは、凄まじい技量がいる。少しでも音がずれたら台無しだし、ジャンプが成功しても溶け込んでいないと汚く、やはり台無しだ。

 静から動へ、そこに熱を生み出すことで、陸は観る者を引きつけた。後半1.1倍になる4回転トーループ、トリプルアクセル、3回転サルコウも最高のGOE で着氷。バタフライからのフライングキャメルスピンは雄壮さがあって、人生のダイナミズムのようなものも表現した。足換えシットスピンでは、音が弾けるのに合わせて跳ね上がる。それは再起を期す者たちへのエールであり、生まれ落ちた者たちへの祝福のようでもあった。
 
 コレオシークエンスは、エピローグのようで名残惜しい気持ちにさせた。 

「この時間が永遠に続いてほしい!」

 空間を共有した人々に、そう思わせる。その時間は永遠ではないからこそ、一瞬に熱があるのだろう。瞬間こそが尊く価値があるもので、掛け替えがない。しかし人間は貪欲で、時の流れの中に埋没したい、とすら思う。そこに儚さ、狂おしさが生まれる。
 
 永遠の一瞬だ。
 
 最後の足換えコンビネーションスピン、終わる前から観客はこらえきれずに拍手をし始め、陸が天空に手をかざした時には、胸に迫るような万雷の音が鳴り響いていた。

「リク!!」

 絶叫に似たファンの歓声が入り乱れていた。

 その世界の中心で、陸は笑顔だった。点数はどうでもいい。そこで感じる瞬間的な恍惚は、勝ち負けを完全に超えていた。これがフィギュアスケートだ、と幸福感に浸る。

 リンクの四方に向かって、陸は本気で頭を下げた。一人一人抱きしめたいほどだった。この熱気のおかげで、陸の演技は触発されたのだ。

「フィギュアスケーターであることを誇りに思う」

 陸はその感慨に浸った。この瞬間があるから、やめられない。次はどんな練習をしようか、そんなことを考えている自分もいた。

〈本当にスケートが好きだな〉

 リンクを去り際、陸は誰にも聞こえないようにそう呟いた。
 
 フリーは200点に迫る得点を叩き出し、トータル300点以上を記録した。激しく追ってきた富美也をわずかに振り切って、頂点に立った。
 
「フィギュア史上まれにみる激戦」

 スポーツ紙が煽っていた勝負にケリをつけた。
 
 表彰台の一番高いところから、陸は富美也を見下ろしながら言った。
 
「会場でお前が沸かした熱を受け取ったぞ。ありがとな」

「ふんっ」

 富美也は鼻を鳴らしただけで、ふてくされた様子で何も答えなかった。

 陸は皮肉で言ったつもりはない。スケーターはそれぞれ輪廻でつながっている。一つの演技は、生涯を懸けて作られるものというだけでなく、ライバルとの切磋琢磨で作られるものであって、一つの演技だけでは完結しない。すべてが数珠つなぎのようになっているのだ。

 富美也の演技がなかったら、陸の神がかった演技は生まれなかった。

「次は僕を越えてみろ」

 陸が言うと、すぐさま富美也が反応した。

「言われなくても、やってやる。泣きっ面にしてやっから」

「なんか、負けた奴の捨て台詞っぽいじゃん。若干、昭和っぽいし」

 陸が挑発するように笑うと、富美也は怒ったような顔になった。

〈喧嘩腰の方が会話している気分になるな〉

 陸は悪い気分ではなく、おかしくなった。そもそも、富美也とはリンクで会話している。誰よりも仲良く、近い距離で。

 富美也は自分が笑われたと思ったのか、胸にかけられた銀メダルを乱暴に外した。出血しそうなほど唇をかみ、込み上げる嗚咽もこらえながら、写真撮影では余裕の笑顔を作ろうとし、異形となった。

「メダルを外すなど、あの態度はけしからん」

 日本から来た年配の関係者たちはぼやいていたが、負けん気の強さは富美也のトレードマークだ。自分たちの対決を、そんな小さな了見でまとめないでほしい、と陸は心の中で思った。

 3位になったカナダ人選手は、表彰台で大はしゃぎだった。不機嫌な富美也と満面の笑みの陸というアンバランスな二人を気遣ってか、わざわざ間に入って肩を組んだ。