ラリー・バードは、そのシュート力と精神力でスーパースターの座に photo by Getty Images連載・NBAレジェンズ04:ラリー・バード プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色…


ラリー・バードは、そのシュート力と精神力でスーパースターの座に

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連載・NBAレジェンズ04:ラリー・バード

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

 第4回目は1980年代にマジック・ジョンソンとのライバル関係、卓越したシュート力と勝利への執念でNBA人気の象徴となったラリー・バードを紹介する。

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【「ダンクは誰でもできるが、メンタルは最も難しい」】

 206cmと長身の白人選手ということもあり、ラリー・バードがボストン・セルティックスに入団した当初、黒人のチームメイトたちは、その実力を懐疑的に見ていた。しかし、キャンプ初日の練習でどのエリアからも正確にショットを決め続けたことで、彼らは『ヤツは違う。プレーできる』とすぐに認識したという。

バードは自身について、こう語っている。

「すごく速いわけでも、力強いわけでもない。だが、メンタルとファンダメンタルでほかの連中をやっつけていた。ダンクは誰でもできるが、メンタルは最も難しい部分なんだ」

 インディアナ州フレンチリックで育ったバードは、母が6人の子どもを育てるためにふたつの仕事をこなし、1975年には父が自殺するなど、経済的に厳しい家庭で少年時代を過ごす。そんなバードにとって、バスケットボールをすることは厳しい生活環境のことを忘れられる、貴重な時間になっていた。

 バードは、スプリング・バレー高の最終学年で平均31得点、21リバウンド、4アシストを記録し、NCAA(全米大学体育協会)の名門インディアナ大にリクルートされ、1974年に入学する。しかし、環境に馴染むことができず1カ月で退学すると、翌年にインディアナ・ステイト大に転入。そこで着実に選手としての力をつけ、1979年のNCAAトーナメントの決勝まで33戦全勝という快進撃の原動力になった。のちにNBAのライバルとなるマジック・ジョンソン擁するミシガン・ステイト大に65対74で敗れて全米の頂点に立てなかったが、大学3年間の成績は1試合平均で30.3得点、13.3リバウンド、4.6アシストを記録した。

【3年連続MVPに3度の王座】


身体能力に頼らないプレースタイルは、日本のバスケファンからも大きな支持を得ていた

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 1979年に大学卒業後、バードは前年の1978年ドラフト1巡目6位で指名されていたセルティックスに入団。NBAデビューから14戦目となるデトロイト・ピストンズ戦で23得点、19リバウンド、10アシストのトリプルダブルを達成する。スキルの高さと賢さを武器に、チームを29勝から61勝まで上昇させる原動力となったバードは、新人王に輝いた。

 1983−84シーズンは、バードにとって最高のシーズンになった。平均24.2点、10.1リバウンド、6.6アシストを記録してレギュラーシーズンのMVPを受賞。プレーオフで前年に負けていたミルウォーキー・バックスを倒すと、NBAファイナルでレイカーズを4勝2敗で下してチャンピオンシップを獲得した。ライバルであるジョンソンの前で平均27.4点、14リバウンドを記録し、文句なしのファイナルMVPに選出されたバードは、こんなコメントを残している。

「私がこれまでプレーしたなかで最も激しいシリーズで、まさに戦争だった。レイカーズに勝ったことは大きな意味がある。彼らはすばらしいチームであり、このチャンピオンシップはさらに特別なものになる」

 この頃のバードは全盛期で、1983−84から3シーズン連続でレギュラーシーズンMVPに選出されている。史上3人目となる3年連続MVPという快挙を成し遂げると、1986年のファイナルでヒューストン・ロケッツを倒して3度目のNBAタイトルを獲得。ファイナル第6戦で29得点、11リバウンド、12アシストのトリプルダブルを達成し、2度目のファイナルMVPに選ばれた。

 翌シーズンもファイナルまで勝ち上がったが、レイカーズに敗れて2連覇を阻止された。その後、1989年から2連覇を成し遂げたデトロイト・ピストンズの台頭もあり、1987年を最後にバードがファイナルの舞台に戻ることはなかった。1988−89シーズンに両足かかとの手術で6試合の出場に終わり、その後は腰痛に悩まされることになる。1991−92シーズンは37試合、クリーブランド・キャバリアーズに敗れたプレーオフも7試合中4試合で欠場を強いられた。

 1992年夏、バードはジョンソンとともにドリームチームのキャプテンを務め、バルセロナ五輪で金メダルを獲得した後、8月18日に現役引退を発表。クロアチアとの決勝戦が、現役最後の試合になった。

「10年前と同じようなことが身体的にできないのがとても悔しかった。以前できていたことができなくなったんだ」と理由を語ったバードは、セルティックス一筋の13年間で3度のNBA制覇とMVP選出、ファイナルMVP2回という功績を残し、背番号33が永久欠番になった。

【トラッシュトーカーとしての側面も】

 バードが偉大な選手と言われる理由は、土壇場でビッグショットを決められる勝負強さを備えていたことが大きい。「特に高校時代から、試合の結果はおそらく自分次第だろうと常にわかっていた」と話しており、ブザービーターで何度もセルティックスを逆転勝利に導いていた。また、1987年のイースタン・カンファレンス決勝、ピストンズとの第5戦の土壇場で相手のインバウンドパスをスティールし、デニス・ジョンソンの逆転レイアップをアシストしたシーンは、バードがいかに冷静で賢い選手であることを象徴するものだった。

 また、当時対戦した選手の間では、バードはトラッシュトークで相手を困惑させる選手としても有名だった。現在TNTのコメンテーターとして活躍中のチャールズ・バークリーは、フィラデルフィア・76ers時代のエピソードとして、こんな話をしている。

「彼が小声で悪態をついていたから、私は『ラリー、どうしたんだ?』と聞いたんだ。すると、彼は『お前たちは私への敬意がない』と言うんだ。私が『何を言っているんだ』と返すと、『お前たちは、私に対して白人をマッチアップさせている。それが失礼なんだ』とね。私はただ笑い出すしかなかったし、言い返す術もなかったね」

 これは、『身体能力が高い黒人選手であっても、自分を止めることはできない』というバード自身の確固たる自信の表れ。1986年に初めて実施されたオールスターの3Pコンテストの前には、ロッカールームで静かに過ごしていた参加者に対し、「誰が2位になるか見ているんだ。ここにいる全員が2位になることについて考えているのを望んでいる。優勝するのは、私だ」と口にしたという。88年まで3年連続で3Pコンテストのタイトルを獲得したバードはこのことについて、後年、インディアナ・ペイサーズの偉大な選手だったレジー・ミラーとのインタビューで事実だと認めている。

 バードのトラッシュトークは、相手を威嚇や挑発することよりも有言実行タイプのものが多く、彼を『True psychological assassin(本物の心理的暗殺者)』と呼ぶ選手もいた。

 現役引退後はセルティックスのフロントオフィスに在籍したが、1997年に子どもの頃に大好きだったペイサーズのヘッドコーチに就任。2000年のファイナルでレイカーズに敗れたあとは現場を退き球団社長、アドバイザー、コンサルタントを務めるなど、ペイサーズとの関わりが深い人生を送っている。

【Profile】ラリー・バード(Larry Bird)/1956年12月7日、アメリカ・インディアナ州生まれ。インディアナ・ステイト大出身。1978年NBAドラフト1巡目6位指名。
●NBA所属歴:13年=ボストン・セルティックス(1979-80〜91-92)/NBA王座:3回(1981、84、86)/シーズンMVP:3回(1984〜86)/ファイナルMVP:2回(1984、86)/新人王(1980)/オールNBAファーストチーム:9回(1980〜88)/オールスターMVP:1回(1982)
●主なスタッツリーダー:フリースロー成功率リーダー(1984、86、87、90)
●アメリカ五輪代表歴:1992年バルセロナ五輪(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)