ベテランプレーヤーの矜持~彼らが「現役」にこだわるワケ第5回:水野晃樹(いわてグルージャ盛岡)/後編前編チームのために「選手としてできることは全部、やりきりたい」と語る水野晃樹 photo by MATSUO.K/AFLO SPORT 難し…

ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ
第5回:水野晃樹(いわてグルージャ盛岡)/後編

前編


チームのために「選手としてできることは全部、やりきりたい」と語る水野晃樹

 photo by MATSUO.K/AFLO SPORT

 難しいチャレンジになることは覚悟のうえで海を渡った水野晃樹だったが、予想を超えて、セルティック(スコットランド)での2年半は難しい時間を過ごした。シーズン途中の加入もあって最初の半年間をリザーブリーグでプレーした彼は、満を辞して2008-2009シーズンに臨んだものの、開幕前に右膝の半月板損傷で出遅れてしまう。復帰後、2008年12月には初先発したリーグ戦で初ゴールを決めるなど流れを掴んだかに見えたが、その後、監督交代によって再びメンバー外になり、公式戦から遠ざかった。

「武器にしてきたスピードやドリブル、キックはある程度通用したという手応えもあった一方で、フィジカルコンタクトでは全然、歯が立ちませんでした。ただ、そこで道を間違えたのは、課題を克服するために体を大きくして対抗しようとしたこと。61キロだった体重を、66〜67キロくらいまで増やしたら、逆に体のバランスが取れなくなって、本来のキレ味を失い、ストロングポイントが目立たなくなってしまった。

 今になって思えば、見た目の大きさではなく、武器をよりスムーズに表現する方法を探ったほうが自分らしく勝負できたんじゃないかと思っています」

 そうした状況を受け、水野は2010年夏に帰国を決意する。ジェフユナイテッド千葉を離れる時から「国内に復帰する時はジェフに」という思いが強かったものの、その時点で千葉のA契約選手枠が埋まっていたこともあり、古巣復帰は断念。当時J2の柏レイソルへの加入を決める。

 周りからは海外移籍が失敗だったんじゃないか、チャレンジしないほうがよかっただろう、という声も聞こえてきたが、彼自身は「チャレンジした結果である以上、失敗とは思っていない」と言いきった。

「海外で活躍することはできなかったけど、自分に何ができて、何ができないかは明確になったし、それを肌身で感じられたのは、間違いなく財産だったと思っています。チャレンジしない人生のほうがつまらないと思っていたので、チャレンジしたことに後悔もない。

 ただ、明らかに監督の構想外になってしまった以上、そこで粘るより、自分を取り戻すほうが先決だと考えました。このままだと選手として終わってしまうという危機感もあったので、一旦日本に帰って活躍し、また(海外に)行けばいいという思いもありました。

 J1クラブからのオファーもあったなかで柏を選んだのは、当時の柏はJ2リーグで首位を独走し、昇格が見えているような状況だったから。柏での半年間で戦える体を取り戻したうえで、J1で活躍する自分を作り出していこうと考えていました」

 だが、思い描いていた青写真は思わぬ形で足止めを食らってしまう。柏でのデビュー戦となった7月25日。奇しくも千葉との古巣戦で途中出場した彼は、その終了間際に右膝を負傷。そのままプレーを続けたものの、検査の結果、前十字靭帯断裂と診断された。

「このケガは自分にとって、キャリアを揺るがす大きなターニングポイントでした。海外でうまくいかずに戻ってきてすぐの大ケガで、初めて弱気にもなり、嫁さんに『サッカーをやめろってことかなぁ』と弱音を吐きつつ、『もっと頑張れってことだよ』って言われて前を向いたのを覚えています。

 ただ、5カ月半くらいで復帰できたものの、以降は自分が武器にしていたスピードを取り戻すのに時間がかかってしまって。今までならギアをグイッと上げられていたシーンでも、上げきれないとか、1対1を抜けきれなくなってしまった」

 その悩みは、以降もついてまわり、彼を苦しめる。実際、柏時代は2010年のJ2リーグ優勝に始まって、2011年にJ1リーグ優勝を、2012年には天皇杯優勝を経験したものの、自身のなかからもっと活躍できたはずなのに、という思いが拭えることはなく、不完全燃焼でシーズンを終えた感も強かったそうだ。

「戦列に戻ってからも自分のプレーを模索し続けていた時に、キタジさん(北嶋秀朗)が『俺は、今のおまえもすげぇと思ってるよ。晃樹のキックを真似できるヤツはいないし、俺だっておまえのクロスが一番合わせやすい』って声を掛けてくれて。『今の新しい水野晃樹をもっと伸ばしていくことを考えろ』って言ってくれた。

 それを機に、自分はこれまでは1対1でガンガン仕掛けるタイプの選手だったけど、それができないなら出し手になればいい、今の自分で活きる道を考えればいい、って考えられるようになった」

 もっともその時は、北嶋の言葉に再び前を向く力をもらい、新しい自分を探す日々を始められることができたものの、「いまだに自分のプレーには納得がいっていないし、ずっと悩んでいる気がする」と水野は言う。柏を離れて以降、今に至るまで、2013年のヴァンフォーレ甲府に始まって、千葉、ベガルタ仙台、サガン鳥栖、ロアッソ熊本、SC相模原、はやぶさイレブン(現厚木はやぶさFC)とキャリアを積み上げてきたなかでも、その模索は続いているそうだ。

 だが、見方を変えれば、それは彼が"新しい水野晃樹"を受け入れ、プレーで表現してきた証であるはずだ。でなければ、これだけたくさんのクラブから求め続けられるはずがない。

「僕の仕事は、試合に出場して、ピッチで活躍して結果を出すこと。そのために、今の自分で勝負する術は常に探しています。

 ただ、特に30代に入ってからは、仮に自分が試合に出られなくても、出ている選手がピッチで気持ちよくプレーできるような声掛けや立ち回りをすることは増えました。グルージャでは試合に絡めていない時も、勝ったら必ずゴール裏にいって、サポーターの前で『バモ!』って叫んで、盛り上げていますしね。もともとの僕はそんなタイプでもないし、本音を言えば、そういう自分ってすげぇ、嫌なんですけど(笑)。

 でも、それをすることでサポーターが応援してあげたいと思ってくれたり、一緒に戦っている選手が気持ちよくサッカーができるのなら、それも自分を求めてくれたクラブへの貢献だろう、と。キャリアのなかで、いろんなチームを見てきて、そういうこともわかるようになったからこそ、自分を押し殺して無理しています(笑)。

 それもサッカーの一部だし、残りのキャリアも短くなってきたなかで選手としてできることは全部、やりきりたいから。それでも、引退する時にはきっと後悔は残すでしょうけど」

 その言葉を聞きながら、前編の冒頭に記した写真撮影での姿を思い出す。マネージャーが用意した洗いたての練習着に袖を通しながら「サイズ合ってないんじゃない!? ピチピチじゃん!」と言って仲間の笑いを誘っていた水野の姿を、だ。

 とはいえ、そんなふうに心の柔軟さは持ち合わせるようになっても、ことプレーに関しては丸くなるつもりはない。彼の言葉にもあるとおり、試合に出られなければ悔しさを募らせ、常に"新しい水野晃樹"を模索しながらサッカーと向き合う。自分のなかに"悔しさ"がある限り、現役選手であり続けるつもりだ。

「相模原を(契約)満了になったあと、チームが決まらない時期は引退も考えたんです。『求めてくれるチームがあるならやったら』っていう嫁さんの言葉にも背中を押してもらって、はやぶさでもう一回、って気持ちになれたんですけど。でも、一度引退を考えたことで正直、自分のなかで突き詰めてきたものが崩れちゃったような感覚もあって。ピッチに立てばボールを蹴るのは楽しいし、ちゃんとプレーはしていたけど、メンタルとプレーのバランスをとるのが難しくなってしまった。

 だから、去年、Jリーグの舞台に戻るとなった時も、正直、どういう気持ちになるんだろうって手探りの自分もいたんです。でも、シーズンが始まって何試合か使ってもらったうえでベンチ外になった時に、すっげぇ、悔しくて。でも、それが自分としてはすごくうれしかった。変な言い方だけど、そういう気持ちが自分のなかにしっかりあるんだと再確認できて、まだまだ戦えると思いました」

 今の目標は、J3リーグで優勝すること。水野のキャリアにおいて唯一獲得していない国内タイトルだ。

「グルージャに加入する時から、ずっとその目標を描いていて去年も実現できなかったし、今年も現時点で最下位なので。簡単ではないのはわかっています。今はまず、プレーオフ出場圏の6位以内、が現実的な目標です。

 でも、だからこそやるべきことはまだまだある。若い選手の"当たり前"の基準を上げるとか、"慣れ"を作らないのも、僕らベテランの役目ですしね。今の順位にいる=全然足りていないということを自分に突きつけながら、残りのシーズンもしっかり戦いきろうと思います」

 今も昔も変わっていないというサッカーの楽しさに魅せられながら。

「僕は昔から点を取ることより、アシストするのが好きなんです。アシストって自分の意思だけでは成立しないじゃないですか? 自分のイメージと周りの選手のイメージが合致して初めて得点になり、アシストになる。その瞬間が一番楽しいし、一番うれしい」

 その一瞬に出会うために、彼は今も"新しい水野晃樹"を追い求めて、ボールを蹴る。練習着がボロボロになっても、戦うステージが変わってもいい。少々無理をして、チームを盛り上げるのもお任せあれ、だ。

「それが今の僕だから」

(おわり)

水野晃樹(みずの・こうき)
1985年9月6日生まれ。静岡県出身。清水商高卒業後、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)に入団。すぐに頭角を現して、チャンスメーカーとして活躍。2005年にはU-20日本代表に選出されてワールドユース選手権に出場。2007年には日本代表にも召集された。そして2008年1月、スコットランドの名門セルティックに移籍。2010年に帰国して柏レイソル入り。以降、ヴァンフォーレ甲府、ジェフ千葉、ベガルタ仙台、サガン鳥栖、ロアッソ熊本、SC相模原、はやぶさイレブンでプレー。2023年にいわてグルージャ盛岡に加入した。