福部真子は日本選手権で初のオリンピック代表への内定を決めた photo by 岸本 勉 女子100mハードル日本記録保持者の福部真子(日本建設工業)が、28歳にして初のオリンピック代表権を獲得した。 ジュニア時代から将来を嘱望されながら、五…


福部真子は日本選手権で初のオリンピック代表への内定を決めた

 photo by 岸本 勉

 女子100mハードル日本記録保持者の福部真子(日本建設工業)が、28歳にして初のオリンピック代表権を獲得した。

 ジュニア時代から将来を嘱望されながら、五輪出場には手が届かなかった福部。だが、今年の日本選手権で、ついに最高の舞台に通じる走りを見せた。

【準決勝でパリ五輪参加標準を突破】

 6月下旬、新潟のデンカビックスワンスタジアムで開催されたパリ五輪代表選考を兼ねた陸上日本選手権。女子100mハードル日本記録保持者の福部真子(日本建設工業)は、目標とするパリ五輪出場に向けて追い込まれていた。

 大会前、世界陸連が定めたポイント制の世界ランキング(1国上位3名対象)では、女子100mハードルのパリ五輪出場枠40に対し50番目。昨年の世界選手権はほぼ同じポイントで40の枠に入れる状況だったように、パリ五輪本番の今年は厳しさが増していた。

 世界では、パリ五輪参加標準記録の12秒77を突破して権利を獲得している選手が32人いる。日本勢では田中佑美(富士通)が39番目で、昨年の世界選手権代表の寺田明日香(ジャパンクリエイト)とともに、この試合で優勝しても出場枠40に入る可能性は低い状況だった。それを覆すには予選から決勝までの3レースの中で、参加標準記録を突破することが求められていた。

 福部には苦い経験があった。1年前、ブダペスト世界陸上の参加標準記録を突破して迎えた日本選手権で4位に終わり、上位3名が世界ランキングで出場権をクリアしていたことで世界陸上出場を逃していた。

 その雪辱も果たすべく臨んだ今年の日本選手権。

 大会3日目の6月29日、昼に行なわれた予選第3組は、向かい風0.6mの条件のなかでひとりだけ12秒8台に入る12秒85で1位通過すると、夜の準決勝は追い風0.8mのなか、2位に大差をつける大会新記録の12秒75でフィニッシュして参加標準記録を突破。一気にパリ五輪を手元まで引き寄せた。この時点で、決勝で優勝すれば即代表内定、最低でも3位以内に入れば、日本陸連の選考要項に則り、大会後に代表に選出される状況となった。

「予選はスタートがよくなかったけど、後半はしっかり粘れていました。コーチとは『スタートから3台目のハードルまでのトップスピードに上げる』ことを話していたので、準決勝はそこだけ集中して、あとは流れを途絶えさせないことだけを意識していました。

 4日前の刺激を入れる練習(レースに近い負荷の強めの内容)からかなりいいタイムは出ていたので、自己ベスト(日本記録の12秒73)に近いところは出るなと思っていました。去年の日本選手権はひとりだけ(世界陸上の)参加標準記録を突破して臨んでいたので吐きそうなぐらい緊張していたけど、今年は『タイムを逃せない。日本選手権の3レースで決めなかったらもうパリはない』ということに対しての緊張感がありました。

 気象条件は自分でコントロールできない部分だし予報は雨だったので、そこへの不安はありました。でも晴れたので、天も味方してくれていると思って頑張りました」

【調子が上がらなかったシーズン序盤】



福部は予選から好記録を出し、準決勝で参加標準を突破した

 世界大会の参加標準記録突破という事実が軽視されているのではないか、とまで思った昨年の屈辱。それを晴らすのはパリ五輪出場しかないと誓って臨んだ今シーズン。世界ランキングのポイントを稼ぐことを意識して、2月にオーストラリアの大会にも出場した。だが2月上旬に予定していた全日本室内選手権前に腰を痛めた影響もあり、ポイントを稼げなかった。

 さらに地元・広島での織田記念(4月29日)は走りも重く、決勝は13秒09で田中に敗れ、2位という結果。「1月から4月まで体調管理がうまくいかず、練習量を半分にしなければいけない状態でした。3週間前からようやく走れるようになったので、練習ができなかった期間を加味すれば上出来だったと思います」と話した。

 そんな乗りきれない状態はその後も続き、5月12日の木南記念では12秒92を出したが2位、翌週のゴールデングランプリは13秒00で3位。織田記念優勝以降、着実にポイントを積み重ねた田中に差を広げられ、福部は思うようにポイントを上積みすることができずにいた。

 だが日本選手権に向け、前の試合から空いた3週間で調子を上げることができた。

「中学生のジュニアハードルの高さで跳躍の高さを出していくという練習をやり始めてから、『この感覚だったな』というのを思い出せたので、予選と準決勝の(12秒)8台、7台の記録が出たのかなと思います。この冬のスピード練習で、スプリンターのように腰を少し低くして足を捌いていく動きが身につきました。ただ、それだとトップスピードになった時に腰が一段下がってしまうので、ハードルと接触があったけど、高いスピードでいい跳躍ができるようになりました。それをさらに磨きをかけるには、体重を減らす必要があると考え、肉は食べないで魚だけにしたり、1日2食で徹底的に減量に努めました。

 体重は日本記録を出した時より2㎏重いけど、その時より体脂肪が1%減の7%にできたので、筋力のパワーが上がって12秒73は出るのかなと思えました」

 準決勝の直後には同走の選手からも祝福された。

「去年はみんなに慰めてもらって、今年は喜んでもらえたので幸せな選手だなと感じました」と笑顔を見せ、さらに続けた。

「あの瞬間(昨年の決勝直後)を一回も忘れたことはありません。あれがあったから踏ん張れたところはあったし、メンタルの成長にもつながった。自分にとってすごく必要な経験だったなと今は感じています」

 本当の意味で前年の屈辱を晴らすには、決勝で勝ってパリ五輪内定を決め、「あれがあってよかった」と心から言えるようにしなければならないからだ。

【トラウマを払拭 ついに大舞台へ】



田中(左)、寺田(右)らライバルの存在は、福部の成長に好影響を与えた

 翌30日の決勝。向かい風0.2m、強い雨のなかでのレースになったが、福部は崩れることはなかった。スタートから前に出ると乱れることもなく、追い上げてきた田中を0秒03振りきり、12秒86で優勝して五輪内定を勝ち取った。

「やっぱり去年のことがよぎって、昨夜はぜんぜん眠れませんでした(笑)。調子はいいけどトラウマも正直あって、『また標準記録を突破しての決勝だから、同じ失敗しちゃったらどうしよう』とすごく考えてしまいました。とにかくスタートだけ集中して、あとは足が回っていくのを止めないことだけを、ずっと心のなかで唱えていました。

走りの感触は今回の3レースのなかでは力んでしまって決勝が一番悪かったけど、それでも12秒8台を出せたのは、自分のなかでのアベレージとしてはよかったと思います」

 2年前は、考えてもいなかった日本選手権優勝を果たし、初の日本代表、そして日本記録保持者になったが、さまざまなことが一気に押し寄せたことで自分の気持ちが追いつかなかった。だが去年1年間の経験を経た今年、「自分が日本記録保持者だという少しのプライドと、チャレンジャー精神を持って走れたところが大きな違いかなと思う」とも言う。

 また自己記録には届かなかったものの、12秒7台の記録を狙って出せたことは大きい。

「今回の12秒75は、2年前の12秒73の時に比べると、最初のスタートからの立ち上がりが全然、遅かった。73の時は、立ち上がりはタイム的にもすごくよかったけど、昨日は3台目以降から急にトップスピードが出てきた感じで、新しい(12秒)7台が生まれた感覚です。

走るスピードを自分で出しつつ、ハードリングでもスピードを出していくという、そのふたつの局面をかみ合わせて、自分のなかでうまく調整してスピードを出していくことができるようになってきました。もう少し条件が良ければまた7台は狙えるし、アベレージにできるのかなとも思います」

 そう話す福部だが、もちろん、世界の上位は自己ベストが12秒2台の争いになっている厳しさも認識している。

「多分、自己ベストが(12秒)7台ではケチョンケチョンにやられると思います。そうならないように7台はどんな状況でも出せるようになり、条件が合えば6台、5台も狙えるようになれば、しっかり世界の選手に食らいついていけると思います。そうイメージしながら練習していけたらと思います。

(パリ五輪の)決勝進出ラインは12秒5台になると思うが、今回は3台目(のハードル)以降からトップスピードが上がってきているので、それを2台目からにできればさらに記録も伸びてくる。そこをしっかり修正していきたいと思います」

 代表争いをともに戦った寺田や田中のほか、今回は欠場した東京五輪代表の青木益未(七十七銀行)というライバルの存在が大きかった。彼女らがいたからこそ、「自分も食らいつきたい、もっと記録を出したい」と踏ん張ってこられたと言う。

 今回、狙って勝ち取ったパリ五輪参加標準記録突破と日本選手権優勝。ジュニア時代から全国トップレベルだったアスリートは、28歳にしてついにオリンピックのスタートラインに立つ。