パリ五輪の開催まで、1か月を切った。国内でもオリンピックに対する期待、関心が高まっており、男子サッカーにおいても7月3日、代表メンバー18人とバックアップメンバー4人が発表された。今回は久々にオーバーエイジ枠が使われないなど変化があったが…

 パリ五輪の開催まで、1か月を切った。国内でもオリンピックに対する期待、関心が高まっており、男子サッカーにおいても7月3日、代表メンバー18人とバックアップメンバー4人が発表された。今回は久々にオーバーエイジ枠が使われないなど変化があったが、サッカージャーナリスト後藤健生は、これらを好意的にとらえている。日本サッカーの「成長」を示すからだ。

■パリ五輪に「出場できない」大谷翔平

 オリンピックのテレビ放映権料はIOCにとって最大の収入源なのだが、高額の放映権を得るためには、トッププロの有名選手の参加は欠かせなかった。

 たとえば、バスケットボールではアメリカのプロリーグであるNBAの選抜チームがアメリカ代表として参加し、その他の国々もNBAのスターが顔をそろえる。当然、放映権料は上がり、IOCにとっての貴重な収入源となる。

 バスケットボールはオリンピックが開かれる夏場がシーズンオフなのでこうしたことが可能なのだが、野球の夏はシーズン中なので大リーグ機構(MLB)は選手たちをオリンピックに参加させようとしない。パリ・オリンピックで野球が行われても、大谷翔平は参加できないのだ。

■スター出場のために認められた「OA枠」

 サッカーでも、IOCはトッププロの参加を望んだ。だが、FIFAはワールドカップを差別化するために、オリンピックへのトッププロの参加には反対だった。

 1988年のソウル・オリンピックにはワールドカップに参加したことのない選手であれば、誰でもが参加できた。そのため、同年に開かれたEUROで活躍したユルゲン・クリンスマンやトーマス・ヘスラー(西ドイツ)、アンドリー・ミハイリチェンコ(ソ連=ウクライナ)といった選手が出場。ブラジル代表にも、ロマーリオやカレカといったスーパースターが顔をそろえた。

 これは、FIFAにとっては望ましい状況ではない。そこで、次の1992年バルセロナ大会から、オリンピックのサッカー競技(男子)は23歳以下の選手の大会ということになったのだ。同大会では、FCバルセロナのジョゼップ・グアルディオラなどが活躍して金メダルを獲得して大いに盛り上がった。

 しかし、IOCはさらに多くのスター選手の出場を望み、結局、FIFAとの妥協として、1996年のアトランタ大会からは年齢制限のない3人のオーバーエイジの出場が認められたのだ。

■ワールドカップ出場が「現実的な目標」に

 1980年代まで日本のサッカー界の最大の目標はオリンピックだった。だが、1990年代に入るとオリンピックが23歳以下の大会となったため、フル代表はワールドカップを目指すしかなくなった。幸い、1990年代の初めには日本でもサッカーがプロ化されて日本代表のチーム力は急上昇。ワールドカップ出場は現実的な目標となっていった。

 しかし、日本のサッカー界にとってオリンピックは依然として重要なイベントだった。

 オリンピックでの成功体験があったことも理由の一つだ。ベルリン大会でのスウェーデン戦での逆転勝利。1964年東京オリンピックでのアルゼンチン戦勝利。そして、1968年メキシコ・オリンピックでの銅メダル……。日本サッカー協会の幹部たちにとって、それらは貴重な体験であり、記憶だったのだ。

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