パリ五輪の開催まで、1か月を切った。国内でもオリンピックに対する期待、関心が高まっており、男子サッカーにおいても7月3日、代表メンバー18人とバックアップメンバー4人が発表された。今回は久々にオーバーエイジ枠が使われないなど変化があった…

  パリ五輪の開催まで、1か月を切った。国内でもオリンピックに対する期待、関心が高まっており、男子サッカーにおいても7月3日、代表メンバー18人とバックアップメンバー4人が発表された。今回は久々にオーバーエイジ枠が使われないなど変化があったが、サッカージャーナリスト後藤健生は、これらを好意的にとらえている。日本サッカーの「成長」を示すからだ。

■フランスW杯ベスト4相手に「逆転勝利」

 日本は1932年のロサンゼルス大会を目指したが、当時のオリンピックはアマチュア選手だけの大会であり、事実上のプロが参加しているという疑惑があったため、同大会ではサッカーは実施されなかった(開催地のアメリカはサッカー人気が低かったからでもある)。

 日本は1936年のベルリン・オリンピックに初めて出場した。当時、英国4協会以外のヨーロッパ大陸諸国では、サッカーがまだ正式にプロ化していなかったので、各国は若手中心のA代表でオリンピックに参加していた。

 日本が1回戦で対戦したスウェーデンは、1938年のフランス・ワールドカップでベスト4に入ったチームだが、日本はそのスウェーデン相手に3対2で逆転勝利を遂げた。続く2回戦で対戦したのはイタリアだった。イタリアは1934年と38年のワールドカップで優勝。ベルリン・オリンピックでも金メダルを獲得した世界最強国だった。日本が対戦したチームにも、1938年ワールドカップで優勝したメンバーが何人か出場していた。

 早稲田大学を中心とした平均年齢23歳ほどの日本代表は、スウェーデン戦の疲労のため、終盤に大量失点して0対8と惨敗を喫したが、途中までは0対3と善戦した。

 1940年のオリンピックが東京で開催されることが決まり、サッカー協会は代表強化の一環として1938年のフランス・ワールドカップにもエントリーした。だが、日中戦争が激化したために棄権を余儀なくされ、さらに1940年のオリンピックの東京開催も返上することになってしまった。

 こうして、日本サッカーは強化のための絶好機を逃がしてしまい、第2次世界大戦の影響で次世代の選手の育成も滞って、戦後は弱体化してしまったのだ。

■ワールドカップ予選は「経験を積む場」

 戦後も日本サッカーの目標はオリンピックだった。

 日本は1954年のスイス・ワールドカップ予選には参加したが、ワールドカップに参加した選手はオリンピックに参加できなくなる可能性があったため、1958年のスウェーデンワールドカップ予選には参加せず、最大の目標はオリンピックであり続けた。

 1964年には東京でオリンピックが開催されることになっていたため、日本サッカー協会は西ドイツからデットマール・クラマーコーチを招聘して日本代表を集中強化。このチームがほぼ同じメンバーで強化を続けて、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得することになる。

 その後は、日本代表はオリンピックとワールドカップの予選にも挑み続けたが、アジア枠が少ないワールドカップ予選突破の可能性は小さかったし、プロを含むヨーロッパ、南米勢に挑戦するには日本サッカーの実力が足りないことは明らかであり、日本サッカーにとっての最大の目標はやはりオリンピックであり続けた。ワールドカップ予選は、オリンピック予選のために経験を積む場のように考えられていた。

■180度の方針転換「プロ容認から要求へ」

 オリンピックは、かつてはアマチュアだけの大会だった。「アマチュア」というのは、純粋に趣味として競技を楽しむ社会のエリートたちのことだ。彼らは仕事を休んで試合やトレーニングをこなすだけの経済的余裕があった。一方、労働者階級出身の選手たちは仕事を休んだら、収入が減ってしまうので生活していけない。そこで、クラブが収入を補填したり、報酬を支払うようになった。それが、プロ選手の始まりだ。

 労働者階級の間で盛んになったサッカーにはプロ選手が多く、オリンピックでも「プロ参加疑惑」が何度も浮上した。1964年の東京オリンピックではイタリア代表にジャンニ・リヴェラやサンドロ・マッツォーラといった有名選手が含まれていた。結局、イタリア代表は東京オリンピックを棄権した。

 ところが、1980年代に入ると、オリンピックを主催するIOC(国際オリンピック委員会)が180度方針を転換。プロ選手の参加を容認するようになり、さらに各競技のトッププロの参加を要求するようになった。

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