コービーのプレーは、多くの現役選手に影響を与えている photo by Getty Images連載・NBAレジェンズ03:コービー・ブライアント プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪…


コービーのプレーは、多くの現役選手に影響を与えている

 photo by Getty Images

連載・NBAレジェンズ03:コービー・ブライアント

 プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。第3回目は、21世紀のNBAの主役として、2008年北京五輪ではアメリカ代表の復権の中心選手だったコービー・ブライアント。4年半前、不慮の事故で41歳の若さでこの世を去った英雄の記憶は、多くの人々の心に鮮明に生き続けている。

 2024年7月6日。アメリカ代表がラスベガスでトレーニングキャンプを開始し、大会5連覇がかかるパリ五輪に向けて本格始動した。

 2004年のアテネ五輪で銅メダルに終わったアメリカは、2008年に前回大会の汚名を返上すべく"リディームチーム(redeem=奪還)"として北京五輪へ臨み金メダルを勝ち取った。その後、現在まで五輪4連覇中と圧倒的な実績を誇るアメリだが、そのきっかけとなったのが2007年にチームへ合流したコービー・ブライアントである。

「練習初日に、彼がチームをまとめ上げて雰囲気を作り出した。ボールが宙に舞ってフロアへ落ちると、彼がルーズボールへ向かってダイブしていった。あれが始まりだったんだ」と当時の代表チームの編成責任者、ジェリー・コランジェロが振り返る。

 アメリカ代表のリーダー格として首脳陣の期待に応えたコービーは、北京五輪に続いて2012年のロンドン五輪でも金メダルを獲得した。

 こうしたアメリカ代表での実績と合わせ、ロサンゼルス・レイカーズひと筋20シーズンを戦い抜いたNBAでの道のりは、実に印象的なものだった。

【イタリアのプレーグラウンドで育んだ技術】

 1978年8月23日、アメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれた。2歳で初めてバスケットボールで遊ぶと、3歳の時点で「将来はNBAのスター選手になる」と発言するほど夢中になっていた。

 1984年、父・ジョーはプレーする機会を求め、妻とふたりの娘、当時6歳のコービーを連れてアメリカからイタリアへ渡った。

 コービーは、アメリカにいる祖父が送ってくるNBAの試合やテレビ番組を録画したビデオを欠かさずチェック。プレーグラウンドで何時間もショットを打ち続けた男は、12歳になると、当時住んでいた強豪クラブ、レッジョ・エミリアのユースチームへ入団して格の違いを見せつけた。

 1991年、コービーは13歳でアメリカへ戻ると、フィラデルフィア郊外の家から近かったミドルスクールを経てローワー・メリオン高校へ進学。最終学年次には平均30.8得点、12.0リバウンド、6.5アシスト、4.0スティール、3.8ブロックを残してウィルト・チェンバレン(元フィラデルフィア・ウォリアーズほか)が保持していた同州の高校得点記録を塗り替えた。

【確執と栄光のシャックとのレイカーズ時代】

 するとコービーは大学へ進まず、1996年のNBAドラフトへアーリーエントリー。1巡目13位でシャーロット・ホーネッツから指名されたように、上位指名権を保持していた多くのチームが指名を見送ったのだが、当時レイカーズのジェネラルマネジャー(GM)を務めていたジェリー・ウェストは「彼は特別だった。ほかのチームが彼をドラフトしなかったことに驚いたね」とのちに明かし、先発センターのブラディ・ディバッツ(元サクラメント・キングスほか)とのトレードを断行し、コービーを獲得した。

 コービーのルーキーシーズン(1996-97)は、1997年のオールスターでスラムダンクコンテスト優勝を飾るも、レイカーズでは平均15.5分、7.6得点にとどまった。さらにプレーオフ、ユタ・ジャズとのカンファレンス・セミファイナル第5戦では1勝3敗と後がない状況で迎えた終盤に5分間で4本のエアボール(リングに当たらずに外れるシュート)を放ち、シリーズ敗退の戦犯として扱いを受けた。

 だが2年目の1997-98シーズン、シックスマン(試合途中でベンチから出場する役割の選手)となって平均得点を2ケタに乗せると、コービーは3年目でスターターの座を勝ち取り、スターダムを駆け上がっていく。当時、レイカーズは1996年夏に"シャック"ことシャキール・オニールというリーグ史上屈指の重量級ビッグマンを獲得し、"シャック&コービー"は互いにぶつかり合いながらも、リーグ最強のデュオと化していく。

 名将フィル・ジャクソンHC(ヘッドコーチ)が就任した1999-2000シーズンから、レイカーズはNBA史上5チーム目の3連覇を達成。ファイナルMVPはペイントエリアを制圧したシャックが3年連続で選ばれたとはいえ、相棒コービーのオールラウンドな働きが不可欠だったことは間違いない。

 楽観的なシャックとストイックなコービー。コート上では勝利を掴むべく共闘してきたが、両者の仲はずっと良好だったとは言えず、2004年夏にシャックがトレードでマイアミ・ヒートへ移籍してスーパーデュオは決別。スター同士のいざこざはたびたび"スターウォーズ"として報じられた。

【自己中心という批判を覆したキャリア終盤】

 その後、コービーは2年連続で得点王になり、リーグ最高のスコアラーの称号を手に入れた。だが、プレーオフでチームは2年連続1回戦敗退に終わるなど優勝にはほど遠く、2007年夏にはフロントへトレードを要求するほど、勝てない状況に苛立ちを募らせていった。

 ところが、トレード要求を撤回して迎えた2007-08シーズンに転機が訪れる。シーズン途中に先発陣を放出せずに即戦力ビッグマンのパウ・ガソルをロスターに加えたレイカーズは、2008年こそファイナルで敗れたものの、翌2009、2010年に見事2連覇を達成した。コービーは自身5度目のチャンピオンに輝き、2年連続でファイナルMVPを受賞した。

 その後コービーはアキレス腱断裂や左ヒザ、右肩負傷などケガにも悩まされてきた。それでも、バスケットボールへの愛情が変わることはなく、2016年4月13日に迎えたラストゲームで、ジャズ相手に圧巻の60得点を奪って勝利へ導き、コートを後にした。

 NBAでベストプレーヤーになるべく、練習に多大な時間を費やし、試合に向けた準備やストレッチなども入念にこなしてきたコービー。その一方で、練習中であろうと激しさを持ち込みチームメイトたちへ容赦なく当たり、チーム内や選手間の仲が険悪になることもあった。それに目立ちたがり屋と見られ、自己中心的な選手というレッテルを貼られて嫌悪感を抱く選手やファンもいたことは事実である。

 そうしたなか、コービーが「最高の選手になりたい」という自らのゴールを貫き、批判を称賛に変えてリスペクトされる存在へ昇華していったことは、見逃せない。NBA のGOAT(Greatest Of All Time=史上最高の選手)と評されるマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れ、対抗意識を燃やして果敢に挑んでいったコービーは、のちにジョーダンの"可愛い弟分"となり、親しい友人になっていった。

 キャリア20シーズンで、コービーはオールスターに18度、オールNBAチームに15度、オールディフェンシブチームに12度選ばれ、リーグの75周年記念チームにも選出。フィールドゴール失敗数1万4481本、試合時間残り5分で5点差以内を指すクラッチタイムの通算2369得点はいずれも歴代1位で現役を終え、オールディフェンシブ1stチーム選出9回はジョーダンらと並んで歴代1位タイ、2006年1月22日にはいずれもNBA歴代2位の1試合81得点、ハーフ(後半)だけで55得点を叩き出した。

 2020年1月26日、コービーはヘリコプターの事故により、41歳の若さで他界。世界中のファン、関係者が早すぎる別れに涙したが、約4年半経ったいまも、コービーの映像はX(旧Twitter)やYouTubeなどソーシャルメディアで定期的に流れ、彼の持つ不屈の精神"マンバ・メンタリティ"はバスケットボール界で健在である。

「私には自分のことをみんなに覚えておいてもらうという責任がある。正しいことをしていれば、その人のゲームはずっと生き続けていく。だからこそ、コートにすべてを残すんだ」

 2017年にコービー自身が口にしていたこの言葉どおり、コービーは私たち全員の心のなかで生き続けていく。

【Profile】コービー・ブライアント(Kobe Bryant)/1978年8月23日、アメリカ・ペンシルベニア州生まれ。ローワーメリオン高出身。1996年NBAドラフト1巡目13位指名(シャーロット・ホーネッツ)。
●NBA所属歴:ロサンゼルス・レイカーズ(1996-97〜2015-16)
●NBA王座:5回(2000、01、02、09、10)/シーズンMVP:1回(2008)/ファイナルMVP:2回(2009、10)/オールNBAファーストチーム:11回(2002〜04、06〜13)/オールスターMVP:4回(2002、07、09、11)
●主なスタッツリーダー:得点王2回(2006、07)
●アメリカ五輪代表歴:2008年北京五輪(優勝)、2012年ロンドン五輪(優勝)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)