立場や覚悟が、人を変えることがある――。杉田祐一のように長い雌伏(しふく)のときを過ごした者ならば、それはなおのことだろう。シンシナティでベスト8進出を果たした杉田祐一が全米オープンに挑む「上位のふたりが抜けたので、その間にしっかり、…

 立場や覚悟が、人を変えることがある――。杉田祐一のように長い雌伏(しふく)のときを過ごした者ならば、それはなおのことだろう。



シンシナティでベスト8進出を果たした杉田祐一が全米オープンに挑む

「上位のふたりが抜けたので、その間にしっかり、日本のテニスを盛り上げていきたい」

 錦織圭の長期離脱が発表されたとき、彼は前方を直視して、そうきっぱり断言した。

 シンシナティ・マスターズに向けた練習中、右手首を負傷した錦織。そして3月に左ひざ前十字じん帯を裂傷し、早々に今季の全休を発表した西岡良仁。それら2選手が戦線離脱したために自ずとフロントランナーとなった杉田は、自身に課された役目や周囲の期待から目を背けるでも、いなすでもなく、正面から受け止める覚悟を固めていた。

「ふたりが戻ってきたときに、いい状態で日本のテニスが盛り上がっているようにしたい」と語った杉田は、自らの言葉を現実にすべく、シンシナティでも快進撃を見せる。初戦で世界16位のジャック・ソック(アメリカ)を破ると、その後も急成長中の若手らを下してベスト8へ。しかし、「日本のトップ」の責務を果たしたいとの想いがやや空回りしたのが、準々決勝のグリゴール・ディミトロフ(ブルガリア)戦だった。

「本当にそれ(重責の影響)がモロに出たのが今日の試合だった。たくさんの方に期待してもらえるし、期待は自分自身にもある。そのエネルギーも使わなくてはいけなかったが、期待しすぎて本来やるべきことができなかった」

 敗戦の理由を、杉田は試合後に総括した。同時に、新たな地位とそれに伴うプレッシャーをいかに消化していくかは、今後しばらく、杉田が抱えていかなくてはいけない命題でもあるだろう。その意味では8月28日に開幕する全米オープンは、彼にとってひとつの試金石にもなる戦いだ。

「選手が圭を含めて抜けているので、自分にかかる期待が大きいのはわかっている。もちろん選手である以上、行けるところまで行きたい。自分のポジションを踏まえたうえで、しっかりやっていかなくてはとの思いがある」

 初出場の全米オープンにて、いきなり担うエースの重責――。その厳しい戦いに挑む杉田を試すかのように、初戦は331位で19歳のジェフリー・ブランカノー(フランス)、そこを突破すれば以降はリシャール・ガスケ(フランス)、そしてラファエル・ナダル(スペイン)との対戦が予想される険しき道が用意された。「日本のテニスを盛り上げたい」という責任感とともに、「ツアーでインパクトを残したい」という野心を実現するには、恰好のドローとも言えるだろう。

 日本女子勢では、やはり期待を集めるのは、6月のウインブルドンで3回戦に進出した大坂なおみ。前哨戦のトロント大会で痛めた腹筋の回復具合が気になるところだが、全米オープン開幕を3日後に控えた時点で「もう大丈夫。げんき!」と笑い、両手の親指をグッと立てた。

 その大坂を初戦で待ち受けるのは、アンジェリック・ケルバー(ドイツ)。前年優勝者の超難敵だが、大坂は「タフな試合になるだろうけれど、私にチャンスがあることはわかっている」と、気負う風もなくさらりと言った。今季のここまでの戦績は、本人曰く「完璧主義者の私にとっては物足りない」。ただし、それが成長過程で誰しも直面する痛みやもどかしさであることも、彼女は客観的に理解している。

「去年は常にチャレンジャーだった。でも今年は、相手に向かってこられることがある。移動ばかりのツアーを戦う難しさも感じている」

 そんな彼女にとって、明確に「チャレンジャー」の立場に身を置ける相手と初戦を戦うことは、むしろ好材料かもしれない。今季はやや封印気味の超高速サーブや、コート上のどこからでもウイナーを奪えるフォアハンドが「エンターテインメントの街」ニューヨークで炸裂するはずだ。

 大会全体の動向に目を向ければ、1位奪回を果たしたばかりのラファエル・ナダルと、ロジャー・フェデラー(スイス)のふたりが男子優勝争いの主軸になるのは間違いない。昨年はいずれもケガに苦しめられたテニス界の「生きる伝説」は、フェデラーが全豪とウインブルドンを、ナダルが全仏をとり、ここまでのグランドスラムタイトルを分け合っている。

 ただし、今大会に挑む両選手に不安要素がないわけではない。フェデラーは3週間前のカナダ・マスターズで決勝まで勝ち上がるも腰の痛みを覚え、翌週のシンシナティ・マスターズは欠場。ナダルもカナダで18歳の新鋭デニス・シャポバロフ(カナダ)に不覚をとり、シンシナティでも22歳のニック・キリオス(オーストラリア)に敗れた。

 ナダルは例年5〜6月のクレーコートシーズンで肉体を酷使し、栄冠を掴む代償として、後半戦ではケガや疲労に苦しめられる傾向がある。また、昨年優勝者のスタン・ワウリンカ(スイス)と準優勝のノバク・ジョコビッチ(セルビア)を含め、トップ11選手のうち4名が参戦選手リストから名を消した。

 かくして本命不在な今大会では、新世代が頂点を掴む可能性も高いだろう。その最右翼が今季、ローマ、そしてカナダのマスターズ2大会を制した20歳のアレクサンダー・ズベレフ(ドイツ)。両親がテニスコーチで、兄のミーシャもツアープレーヤーというテニス一家に育った若者は、志(こころざし)的にもここまでの実績でも新王者の資質を十分に備える。課題は5セットマッチのグランドスラムを勝ち抜くだけの体力だが、シンシナティで初戦敗退したことがプラスに作用するかもしれない。

 立場の変化が覚悟を生み、覚悟が人を象(かたど)っていく――。テニス界が過渡期に差しかかり、流動性の高いなかで迎える今回の全米オープンは、新旧いずれの勢力が勝ち上がっても、そこには新たな物語がある。