連載第5回 サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は、前回の「バニシングスプレ…

連載第5回 
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。今回は、前回の「バニシングスプレー」に続き、南米発祥で、現在の世界のサッカーに採用されているアイデアを紹介します。

【主審が右手を高く上げて、指を2本立てて見せた】

 1993年。Jリーグが発足した年のことだ。

 9月11日に横浜の三ッ沢球技場でJリーグ・ヤマザキナビスコカップ(現、JリーグYBCルヴァンカップ)の横浜フリューゲルス対横浜マリノスの試合があった。いわゆる「横浜ダービー」で入場者数は1万3419人。ほぼ満員だ。



アディショナルタイム(ロスタイム)の表示は、今や世界中のサッカーシーンで行なわれている photo by Getty Images

 主審はアルゼンチン人のフアン・カルロス・クレスピ氏だった。試合はマリノスが同じアルゼンチン人のラモン・ディアスのゴールで先制したものの、後半、フリューゲルスがエドゥーの2ゴールで逆転。87分にはアウドロがダメ押しの3点目を決めてリードを広げ、時計の針が90分を指そうとしていた。

 すると、長身のクレスピ主審が右手を高く上げて、指を2本立てて見せた。

「あれは、何のサインだ? ロスタイムが2分という意味かな......」と思っていると、案の定、2分が経過した時点で試合終了のホイッスルが吹かれた。

 試合後の記者会見では、マリノスの清水秀彦監督、フリューゲルスの加茂周監督に続いてクレスピ主審が現われた。今では審判員の会見など考えられないことだが、珍しいアルゼンチン人主審だったので会見の席が設けられたのだろう。

 クレスピ主審は「日本の試合はテンポが速い」「小さなファウルはいちいち取らないで、試合を流すべきだ」といった話をした。

 僕は、あのロスタイムの時のサインについて質問をしてみた。

「指でサインを出すのはアルゼンチンのやり方だが、南米ではどこでもやっているんじゃないかな」という答えだった。

【ロスタイム表示で観客も安心】

 当時のサッカーでは、今のように長いアディショナルタイム(当時は、「ロスタイム」という言葉が一般的だった)が取られることはなかった。多くの試合は45分ぴったりに笛が吹かれたし、ロスタイムがあっても2、3分程度だった。

 だが、ロスタイム表示がなかったので、ロスタイムが何分あるのか誰にもわらなかった。審判員同士の通信システムも使われていなかったから、ラインズマン(線審。現在のアシスタント・レフェリー=副審)もロスタイムが何分なのかわっていなかったはずだ。

 本場ヨーロッパでも状況は同じだった。だが、南米大陸にはレフェリーが指でロスタイムの長さを示すという習慣があったのである。

 それからしばらくして、ヨーロッパでも第4審判がボードを使ってロスタイムを示す方式が取り入れられた。そして、日本でもロスタイム表示が行われるようになり、観客も安心して試合を見ていられるようになったし、選手たちは残り時間を意識しながらプレーすることができるようになった。

 前回コラムでご紹介したバニシングスプレーと同様、南米大陸での"発明"が世界のサッカーを変えた一例だ。

 ただし、最近のように長いアディショナルタイムを取るようになると、再びいつ試合が終わるのかわからなくなってしまった。試合の終盤は、選手の疲労がたまっているので倒れ込む選手も多いし、1点を争う試合では反則などを巡ってトラブルになることも多い。アディショナルタイムが「12分」と表示されていても、その12分の間にトラブルが起こると時間はさらに延長されるから、結局、いつ試合が終わるのかわからなくなってしまうのだ。

「12分」が経過した瞬間に再び残り時間を表示するか、ラグビーのように場内やテレビ画面の時計をレフェリーの時計と連動させて、残り時間が「ゼロ」になった瞬間にタイムアップにする必要があるのではないだろうか?

【世界に広まった「マルチボールシステム」】

 もうひとつ、南米発祥で世界に広まったのが「マルチボールシステム」だ。ボールがタッチラインやゴールラインを割ると、すぐに新しいボールが供給され、すぐにスローインやCK、GKで試合が再開される(時には時間稼ぎをするチームもあるが)。

 だが、昔は1個のボールだけを使っていたので、ボールが外に出るとボールボーイがボールを拾ってくるのを待たなければならなかった(今では「ボールパーソン」と言うべきところだが、昔は「ボールボーイ」と言っていたし、実際「ガール」が登場することは滅多になかった)。

 だから、ボールが戻ってくるまでに時間がかかることもあった。

 有名なのは1968年のメキシコ五輪3位決定戦で日本がメキシコに勝利した試合だ。当時の五輪はアマチュアの大会だったが、メキシコはプロリーグの若手選手選抜で(プロ契約前だからアマだという理屈だ)、メキシコの観客は「日本なんかに負けるわけない」と信じていた。ところが、釜本邦茂に2ゴールを決められ、せっかく獲得したPKはGKの横山謙三にストップされてしまったので、アステカ・スタジアムに詰めかけた観客は怒りはじめた。

 メキシコ人サポーターは「ハポン、ハポン、ラララ」と日本を応援し始める。そして、スタンドにボールが入るとそのボールを返そうとしなかったのだ。仕方なく、レフェリーはボールが壊れたりした時のための予備ボールを使うことを決めた。

 アステカ・スタジアムをはじめ、中南米にはピッチとスタンドの間に溝が掘られているスタジアムが多かった。興奮した観客がピッチに乱入するのを防ぐためだ。

 その溝にボールが落ちてしまうと、ボールボーイが先端に籠が付いた棒でボールを拾おうとするのだが、これがけっこう時間がかかるものだった。

 日本ではこんなことがあった。

 日本代表と韓国代表が対戦する日韓定期戦でのことだ。ボールがゴールラインを割って、ゴール裏を転々とした。当然、ゴール裏のボールボーイが拾ってくるはずだ。ところが、ゴール裏のボールボーイは一向に反応しない。

 それは、日が当たる穏やかな午後だった。サッカー人気は低迷しており、せっかくの日韓対決だというのに東京・国立競技場に集まった観客は2万人にも満たなかった(現在のような実数発表だったら、1万人に達していなかっただろう)。

 そんな長閑な雰囲気だったので、ボールボーイは気持ちよく居眠りをしていたのだ。

【1978年、南米で初めてマルチボールシステムを見た】

 とにかく、ボールがラインを割ると、戻ってくるまで時間がかかったのだ。

 僕は「すぐに予備ボールを使えいいのに」とずっと思っていた。

 1978年。アルゼンチンW杯を観戦するために、僕はロサンゼルス経由でペルーに降り立って、その後、ボリビアの事実上の首都ラパスに移動。地元の人気チーム、ザ・ストロンゲストとアルゼンチンのボカ・ジュニアーズの親善試合を見に行った。

 W杯直前でアルゼンチンの国内リーグが中断していたので、ボカが遠征してきたのだ。

 試合中、ボールがラインを割る。すると、ボールボーイが新しいボールを投げ入れて試合がすぐに再開された。

 そう、僕が初めて「マルチボールシステム」を目撃した瞬間だ。「ああ、これなんだよ、これ」と思った。

 その後、しばらくしてFIFAも「マルチボール」の採用を検討。1995年の女子W杯とU-17世界選手権(現、U-17W杯)でテストが行なわれ、正式に採用されることになった。Jリーグでも、1996年から「マルチボール」が導入されている。

 サッカーは伝統を重んずる競技であり、他の多くの競技に比べるとルール改正には慎重だ。ルールがコロコロと変わるのがいいとは思わないが、よいアイデアがあったら、どんどんテストを行なってもらいたいものだ。

 サッカーの伝統が長いヨーロッパではなく、南米大陸から新しいアイデアが生まれているあたりも興味深い。