2010年のワールドカップを前に、日本のジャーナリストたちは揺れていた。治安最悪と言われる南アフリカでの取材に、恐怖を覚えていたのだ。蹴球放浪家・後藤健生も当然、彼の地の取材におもむいた。そして、敢然と戦ったのだ。 ■南アフリカW杯で1か…

 2010年のワールドカップを前に、日本のジャーナリストたちは揺れていた。治安最悪と言われる南アフリカでの取材に、恐怖を覚えていたのだ。蹴球放浪家・後藤健生も当然、彼の地の取材におもむいた。そして、敢然と戦ったのだ。

■南アフリカW杯で1か月滞在した「大木旅館」

 温厚な性格の僕は、他人とケンカなんかすることは滅多にありません。

 そんな僕が、毎日のようにケンカに明け暮れていたのは、2010年の南アフリカ・ワールドカップのときでした。

 そのケンカの相手というのは、サッカー・コーチであり、ジャーナリストでもあるY浅健二さん……ではなく、彼が借りていたレンタカーについていたカーナビでした。

 成り行きを説明しておきましょう。

 ワールドカップ開催地だった南アフリカは、悪名高い「アパルトヘイト(人種隔離政策)」が終わり、ネルソン・マンデラ大統領の下で民主化されましたが、白人が経済を支配し、多くの黒人の生活環境は改善されないままの状態が続きました(もちろん、大金持ちになった黒人もたくさんいますが)。

 そして、南アフリカは治安が悪いことでも有名だったのです。

 だから、普通のワールドカップのように勝手に都心部に安宿を取って、電車やバスを乗り継いで国内を移動するというわけにはいきません。かといって、安心な地区にある高級ホテルに1か月も滞在したら、財政が破綻してしまいます。

 いろいろな情報を集めて最終的に選択したのが、郊外にある中間層向けの宿泊施設でした。

 南アフリカの首都プレトリアと最大都市ヨハネスブルグのちょうど中間にあるミッドランドという街の郊外にあった「ビッグツリーB&B」。ビッグツリーは「大きな木」ですから(本当に、敷地内に大きな木が立っていました)、僕たちは便宜的に「大木旅館」と呼んでいました。

■3台のレンタカー借り切って「試合会場」へGO

 周囲はフェンスで囲まれており、緑豊かな敷地内にコテージ風の部屋が10数棟立っていて、周囲を銃を持ったガードマンが24時間警戒しています。

 ただし、郊外の不便なところにありますから、移動はレンタカーに頼らざるをえません。ところが、僕は運転免許を持っていません。そこで、運転の得意な(あるいは好きな)メンバーを10数人集めて、3台のレンタカーを借り切って試合に合わせて移動するという計画でした。

 そのメンバーの1人が、Y浅さんだったのです。

 Y浅さんは、トラック・ドライバーのアルバイトをしてお金をためて、西ドイツのケルン体育大学に留学したという人ですから、運転はプロ並みです。

 そのY浅さんは、大会4日目の日本代表の初戦に合わせて、6月14日にヨハネスブルグのO・R・タンボ国際空港に到着する予定でした。空港でレンタカーを借りてぶっ飛ばして、試合の3時間くらい前にはフリーステート・スタジアムに着くというのです。

 ところが、試合間近になってもY浅さんは現われませんでした。皆で心配していたのですが、試合直前に到着。なんでも、レンタカーのカーナビの設定がおかしかったようで、なかなか高速道路に乗れず、ヨハネスブルグの都心部をグルグル回っていたんだそうです。南アフリカの中でも一番、治安の悪い場所です!

 とにかく、Y浅さんも到着し、約1か月の南アフリカ滞在が始まりました。

■役割は「コーディネート」と「ナビゲート」

 ところで、僕の役割は何かというと、一つはコーディネートでした。

 大木旅館という施設を見つけ、B&B側と交渉をして、料金を支払い、現地のレンタカー会社と契約をして……。全員が同一行動というわけではないので、毎日、宿泊人数が違うので、かなり複雑な予約になりました。その複雑な交渉の現地側の責任者がトリフィーナという若い黒人女性で、親身になって複雑な料金計算をしてくれました(「蹴球放浪記」第46回「大木旅館の愛しのトリフィーナ」の巻)。

 僕のもう一つの役割はナビゲーターです。

 運転はできませんが、ナビゲーションは僕の得意技です。地図を読む能力と空間把握能力は高いので、初めての土地でも地図を見ながら、なんとか目的地まで行く自信があります。

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