日本高校野球連盟と朝日新聞社が高校野球の育成と発展に尽くした指導者へ贈る今年度の育成功労賞に、仙台商、石巻商などで監督を歴任した水沼武晴さん(62)=仙台市=が決まった。8月15日、阪神甲子園球場で表彰される。 仙台商を夏の宮城大会で準優…

 日本高校野球連盟と朝日新聞社が高校野球の育成と発展に尽くした指導者へ贈る今年度の育成功労賞に、仙台商、石巻商などで監督を歴任した水沼武晴さん(62)=仙台市=が決まった。8月15日、阪神甲子園球場で表彰される。

 仙台商を夏の宮城大会で準優勝させ、春と秋の東北大会に5回出場、石巻商を秋の東北大会へ2度導くなど華々しい実績の裏で、厳しい道を歩んだ。

 小中学生で野球に熱中し、高校は当時公立校で最も甲子園に近かった強豪仙台商へ。投手を務めて臨んだ宮城大会決勝で東北に敗れ、甲子園に行けなかった。卒業後は日本石油(当時)に入り、東京都内で勤務。野球から離れた。

 そんな折、後輩が甲子園に出場した。試合を見た時、こんな気持ちがふと芽生えた。「もう一度、野球がしたい」――。

 指導者を目指そうと仙台市に戻り、酒店や青果店、福祉施設などで働き、夜間大学に通学。28歳で県の教職員になった。

 だが着任した松島は落ち着きがなかった。部員が練習に遅れるのは日常茶飯。1人でグラウンドを整備し、生徒の遅刻の度に「私に指導力がないからだ」と自ら10周走った。部員が「いや先生、我々がやります」と言い始め、少しずつ変わった。

 1992年に母校・仙台商に移ったが、チームは低迷していた。そこで生徒の私生活や学校生活を見直し、普段でもリーダーシップを発揮できるよう指導。数年で決勝まで勝ち上がるまでになった。

 強烈に印象に残っているのは、東日本大震災だ。当時は石巻商にいた。2011年3月11日は入試を採点し、午後からグラウンドで練習をしているさなか、2時46分を迎えた。

 地割れが起き、液状化で噴水のように水がわき上がった。津波警報が鳴り、生徒を学校の駐車場に避難させたが、川を逆流した津波がどんどんグラウンドに入ってくる。

 校舎の2階に逃げ、2階では駄目だと3階に避難した。余震も続いた。だが、2、3日すると、生徒たちが「先生、どうしても、家を見てきたい」と訴えた。校長の了解を得て泥の中、みんなで向かったが、家々は流失し、家族にも会えず、涙を流して学校に帰ってきた。

 生徒や地域の人との避難生活が学校で始まった。グラウンドは汚泥にまみれ、約1カ月間は練習できなかった。先生が避難所を運営する中、部員はみんなねじりはちまき姿になり、町にボランティアに出かけ、夕方戻ってくる日々を過ごした。

 練習の再開後も学校周辺はがれき置き場になり、有害物質対策でマスクを付け、エアコンもないのに窓を閉め切らねばならず、汗をだらだら流して授業する日々。生徒たちの背中はハエで真っ黒になり、ネズミがうろうろしていた。半年後には台風15号で再びグラウンドは水浸しになった。

 それでも、直後の秋季大会は勢いに乗った。準々決勝では強豪で知られる仙台育英を破った。そして、準決勝で当たったのは石巻工。互いに震災、台風で被災し、特別な思いで臨んだが、3―1で石巻工に競り負けた。「勝って甲子園で頑張る姿をお見せして、お礼したかった」と振り返る。

 22年、東北生文大で監督を退き、今は副校長だが、遠方から入った野球部員7人と寮で暮らす。「厳しく叱ることもあるが、すぐそばに居る分、成長もよく見える。一緒に居ながら勉強させてもらっている」と笑う。

 「高校野球が多くの人に愛されている理由を考えたとき、一生懸命さや笑顔が最も大事」と語る。球児たちには「素直な、思いやりのある子になってほしい」と願う。(吉村美耶)