ブランコの2人の息子がNPBでプレーする日は来るか。楽しみに待ちたい(C)産経新聞社 中日、DeNA、オリックスの3球団に在籍したトニ・ブランコはNPB計8シーズンにわたり、スラッガーとしての素質を存分に発揮した。来日初年度である中…

ブランコの2人の息子がNPBでプレーする日は来るか。楽しみに待ちたい(C)産経新聞社

 中日、DeNA、オリックスの3球団に在籍したトニ・ブランコはNPB計8シーズンにわたり、スラッガーとしての素質を存分に発揮した。来日初年度である中日加入1年目の2009年、さらにDeNAに移籍した2013年、いずれも打撃タイトル2冠に輝いている。

 中日ではリーグ優勝にも貢献し、日本シリーズでも4番の座を務めた。DeNA加入後も主軸として存在感を放っている。来日当初から、NPB時代にかけての自身のプレースタイルの変化を振り返ってもらった。

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「自分が母国で最初に野球を学んだドミニカ共和国のアカデミーや、その後プレーした米国のマイナー、メジャーでは、とにかくパワーが中心でした。投手は速い球を投げ、打者はそれを強く打ち返すことを基本としていました。しかし、日本ではスピードやパワーよりもプレーの細かさが必要だと教えてもらいました」

 また、中日時代は広いナゴヤドーム、DeNAでは横浜スタジアムと、それぞれ本拠地のサイズが大きく異なったことも、自身のバッティングに影響を及ぼしたと語る。

「中日では広い球場だったため、もちろん遠くへ飛ばすことを意識しました。周囲からサポートして貰ったこともあり来日1年目で本塁打王、打点王を獲得できたんです。その後、2013年のDeNAでの1年目でも、打点王と首位打者を獲得できました。自分にとって4シーズンぶりのタイトルでしたが、移籍後もチーム内でのアドバイスが大きかったですね」

 ナゴヤドームより狭い横浜スタジアムでは、それまでの長打狙いから、ミート中心のバッティングを心掛けたと話す。来日以降、打率は初めて3割を超え(.333)リーディングヒッターに輝いた。当時チームを率いていた、中畑清監督の助言がバッティングに変化を加えたという。

「本拠地の球場が狭くなることで、中畑監督が『強く振らなくてもホームランになるから、ヒット狙いのスイングに変えたほうが良い』とアドバイスをくれたのです。その言葉通り、打席では長打よりも、塁に出るバッティングやランナーを還すことを意識するようになりました」

 DeNA時代のエピソードを語るブランコは「ナカハタさん、ゼッコーチョー!」と叫ぶなど、当時を懐かしむ表情も見せている。またNPBでは8シーズンにわたり、球界を代表する強打者として君臨したブランコの目に、現在の日本人選手のポテンシャルはどう映っているのかを聞いてみた。MLBで活躍するプレーヤーの評価とともに聞くと、興味深い答えが返ってきた。

「我々がプレーしていた当時より、明らかに日本人選手のスキルは上がっていると思います。なぜなら、近年はNPBのタイトル争いに助っ人の名前が載らなくなったからです。我々のような外国人選手が常連だった、ホームランキング争いでも日本人選手がほとんどです。メジャーでは大谷翔平選手がまさに世界一のプレーをみせています。他にも鈴木誠也選手や、オリックスでチームメイトとしてプレーした吉田正尚選手の活躍も目覚ましいです。日本人選手は長打力やパワーでも、自分がプレーしていた頃より上がっていることは間違いないでしょう」
 
 最後に、ブランコの今後、実現したい夢を教えてもらった。やはり、その言葉にも日本への想いが込められている。

「自分の夢は2つあります。1つは自分がプレーしてきた経験や知識を、日本の多くの若い選手たちに伝えたいと思っていて、また自分ももう一度日本に行って文化を学びたいです。もう1つの夢は、2人の息子が現在、MLB球団の下部組織でプレーしているのですが、いずれメジャーでのプレーはもちろん、NPBでも活躍してくれたら嬉しいですね」

[文/構成:ココカラネクスト編集部]

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