1979年夏の甲子園。開校3年目で初出場を果たした茨城県立明野高校はその勢いのまま、初戦の高松商(香川)戦を延長十三回サヨナラ勝ちで突破する。だが、チームはその年の春の県大会まで、公式戦で1勝もしていなかった。 明野は77年4月の開校。当…

 1979年夏の甲子園。開校3年目で初出場を果たした茨城県立明野高校はその勢いのまま、初戦の高松商(香川)戦を延長十三回サヨナラ勝ちで突破する。だが、チームはその年の春の県大会まで、公式戦で1勝もしていなかった。

 明野は77年4月の開校。当時、真壁郡明野町(現・筑西市)には高校がなく、開校は「地元住民の悲願だった」と監督だった浅野正勝(80)は言う。野球部は、エースの斎藤郁夫(63)ら1期生が立ち上げた。

 開校当初は、雑木林を切り開いて造った敷地に校舎があるだけで、野球ができるグラウンドはなかった。学校の向かいにあった企業の軟式野球用練習場を借り、毎日放課後に3時間半ほど練習した。

 学校のグラウンドは、体育教師でもあった浅野ら教員が授業の合間を縫って林を切り開き、2年をかけて整備していった。「体育の授業中、グラウンドに落ちている枝を生徒らで拾い集めたこともあった。手作りだったからこそ、完成した時の愛着もひとしおだった」。部員の1人だった仁平光男(62)は、当時の思い出を語る。

 部員は当初13人。斎藤や仁平らのように中学での野球経験者もいたが、それでも1年生だけだ。翌年に後輩が入部し、20人ほどになったが、3年生がいる他校に勝つのは難しかった。斎藤とバッテリーを組んでいた捕手の大林弘(62)の記憶だ。1年目、そして2年目。夏の茨城大会は初戦敗退だった。

 限られた練習場所で、走り込みやキャッチボール、守備の連係確認など基本的な練習を繰り返した。

 転機は、斎藤らが3年生に進級する春休みのことだった。遠征で千葉県まで出かけ、前年の秋に関東大会に出場した学校と練習試合をした。

 つてはなかったが、他県の強豪校との試合を経験させようと、浅野が必死に隣県の学校に声をかけて組んだものだった。

 浅野によると、その試合は5―5で引き分けた。それまで近隣の高校との練習試合で勝つことはあったが、全国レベルの強豪と引き分けたのは初めての経験だった。積み重ねてきた練習の成果が形になった瞬間だった。大林も「自信になった」と話す。

 その年の茨城大会では初めて初戦を突破、勢いに乗った。準々決勝で古豪・水戸商を3―2で破り、準決勝は六回コールドと圧勝。決勝の相手は、当時6度の甲子園出場を誇る竜ケ崎一だったが、序盤で先制して流れをつかみ、1点差を守り切った。

 勝ちを重ねていくなか、監督の浅野には、選手たちの表情がどんどん自信を深めていったように映った。積み重ねてきた基本練習の先に、成長の大きな花が開いた。「一度開いたら、まるで狂い咲きしたようだった」

 あれから45年が経つ。今年1月、明野は別の高校と統合し、2026年度末で閉校することが決まった。

 いま、全校生徒は65人。野球部も休部中で、夏の茨城大会には21年に連合チームで出場したのが最後だ。当時の記憶を伝えるのは、校舎裏の一角に設置された甲子園出場の記念碑だけとなった。

=敬称略(古庄暢)

■1979年夏の茨城大会の明野戦績

1回戦 3-1 上郷農

2回戦 1-0 茨城キリスト

3回戦 4-0 鉾田農

4回戦 2-1 土浦三

準々決勝 3-2 水戸商

準決勝 12-2 緑岡

決勝 3-2 竜ケ崎一