高校野球の育成と発展に尽くした人に日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る「育成功労賞」に、石川県立穴水高校野球部の責任教師、白木正文さん(59)が選ばれた。奥能登の4校の監督を歴任してきた。 小学校入学前からグラブを持っていたという白木さんは…

 高校野球の育成と発展に尽くした人に日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る「育成功労賞」に、石川県立穴水高校野球部の責任教師、白木正文さん(59)が選ばれた。奥能登の4校の監督を歴任してきた。

 小学校入学前からグラブを持っていたという白木さんは、小学6年生の時、できたばかりの輪島市内のクラブチームに入り、甲子園を目指した。

 だが、高校2年生で、身長が目標の水準に届かず「プロにいっても通用しない」と感じ、「監督として甲子園を目指そう」と新たな目標を立てた。

 初めての監督は母校の輪島高校で務めた。大切にしたのは、毎日必ず練習に出て、生徒たちの顔を見ること。白木さんが高校生だったころは、冬場のトレーニングに監督は来ず、生徒だけで練習を積み重ねるのが当たり前だったという。「雪が降りしきる中を、生徒だけでびしょびしょになって走っていた」。でも、自分は必ず生徒たちを見てやりたいと思った。「それが監督として当然だと思うから」

 監督としての初めての夏。輪島は石川大会の決勝に進み、金沢高校に敗れはしたものの接戦を繰り広げた。当初は不仲だったバッテリーも、白木さんの姿をみて結束を固めた。「先生が毎日来てくれたからです」と語ったという。

 穴水に赴任してからも、その姿勢は変えなかった。部員が2人だけの時もあったが、「この経験がいつか必ず糧になるからな」と伝えた。そうして育てた教え子が、試合で二塁打を放った。涙がほおを伝った。

 ひざを悪くし、腎臓に病を抱えた今は、監督を譲って責任教師としてチームを支える。

 元日の能登半島地震では輪島市内にある実家が全壊した。穴水高校もグラウンドに亀裂が走り、グラウンド近くの斜面も崩落。多くの生徒が被災した。白木さんも避難所生活を経て、一時は金沢市内の親戚の家に退避。時には穴水高校まで片道約90キロの道のりを通った。

 「つらい思いをしている生徒も多いから思い出させないように」。登校中の生徒一人一人を迎え、声をかける日々だ。「がんばろうな」。監督時代から変わらないまなざしで、生徒を見守っている。(小崎瑶太)