高校野球の育成と発展に尽くした指導者へ日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る今年度の「育成功労賞」に、県内から服部芳裕さん(65)が選ばれた。30年近くにわたって浜通りの県立高校で野球部監督を務めた。 富岡町で少年野球を始めたのが、野球との出…

 高校野球の育成と発展に尽くした指導者へ日本高校野球連盟と朝日新聞社が贈る今年度の「育成功労賞」に、県内から服部芳裕さん(65)が選ばれた。30年近くにわたって浜通りの県立高校で野球部監督を務めた。

 富岡町で少年野球を始めたのが、野球との出会い。高校最後の夏、逆転サヨナラ負けを喫した。やり残したという思いがあり、指導者の道へ進んだ。

 双葉翔陽高(大熊町)に勤めていた2011年、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が発生。住んでいた富岡町は立ち入りができなくなり、福島市へ避難した。部員も県内外に散り、「野球はもう教えられないかもしれない」と思った。

 しかし、県内に残った部員たちは「野球を続けたい」と言った。同じく部員数が減った富岡、相馬農の2校と連合チーム「相双連合」を組み、服部さんが監督に就いた。部員らは平日は間借りした高校の練習に混じり、週1回集まってチーム練習に励んだ。「これまではライバル同士だったが、野球をやりたい気持ちで結集し、野球ができる喜びをかみしめていた」と振り返る。

 こうして臨んだ夏の福島大会の初戦。このままでは無安打無得点でコールド負けという場面で、「一発狙え」と4番を打席に送り出した。期待に応える本塁打が出て、スコアボードに「1」を刻めた。「皆でやってきて良かったという1点だった」。この試合には、避難先で野球が続けられなくなった生徒らも応援に駆けつけた。

 20年、小高産業技術高を最後に退職した。「子どもたちは目標に向かって一生懸命取り組み、予想を超える成長をみせてくれた。それが喜びであり、私も成長させてもらった」。充実の教員生活をこう振り返った。(酒本友紀子)