能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市の日本航空石川。校舎や寮、グラウンドが損壊し、断水の復旧も見通しが立たず、山梨県内の系列校に一時移転した。常総学院(茨城)と対戦する24日の選抜大会1回戦は雨天中止となり、25日に順延された。 …

 能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市の日本航空石川。校舎や寮、グラウンドが損壊し、断水の復旧も見通しが立たず、山梨県内の系列校に一時移転した。常総学院(茨城)と対戦する24日の選抜大会1回戦は雨天中止となり、25日に順延された。

 日本航空石川は昨秋の北信越大会準決勝で敗退し、選抜出場が厳しくなっていた。ところが北信越大会を制した星稜(石川)が、その後の明治神宮大会で優勝。北信越の選抜選考枠が2から3に増え、日本航空石川の選抜出場が現実味を帯びてきた。

 部員のテンションは最高潮に達したものの、チーム状況は満足できるものではなかった。

 「よく言えば個性が強い選手が多く、悪く言えばわがままな選手が多い」。中村隆監督(39)の指摘に、キャプテンの宝田一慧(ほうだいっけい)選手(3年)は認めるしかなかった。

 「自分さえよければいいという選手が多く、チームプレーができないこともありましたから」

 ミーティングで宝田選手が課題や問題を提起しても、部員の反応は乏しかった。荒牧拓磨選手、久々江(くぐえ)翔吾選手、北岡颯之介(そうのすけ)選手(ともに3年)の副キャプテン3人も、キャプテンを支える存在としては物足りなく見えた。

 荒牧選手は明かす。

 「自分の意見を主張してチームがギスギスするのは嫌だし、バラバラになるんじゃないかという不安もありました」

 昨年12月24日に年内の練習を締めくくると、すべての部員67人は輪島市の寮を後にした。

 元日を迎えた能登半島が、激しく揺れた。

 選抜でベンチ入り候補の32人が集合したのは、系列校がある山梨キャンパスだった。教室に段ボールベッドを敷き詰め、最小限の手荷物だけを持ち込む「一時避難」の生活が始まった。

 部員と3週間ぶりに顔を合わせた中村監督は安堵(あんど)したものの、気がかりなこともあった。大半の部員は石川県外の出身。被災した選手と、被災していない選手の温度差を感じていた。

 1995年1月17日。10歳の野球少年だった中村監督は、神戸市西区の自宅で激しい揺れに襲われた。阪神・淡路大震災だった。

 自宅の瓦は落ちて、電気もガスも水道も止まった。グラウンドに仮設住宅が建ち、2年近くチーム練習ができなかった。自宅が倒壊し、引っ越していった仲間もいた。

 当たり前のことが、当たり前ではなくなることを知った。だからこそ能登半島地震で被災していない選手にも、この現実を感じて欲しかった。

 山梨キャンパスで迎えた7日目の夜、福森誠也選手(3年)が全体ミーティングで語り始めた。

 祖母宅がある輪島市で被災し、大きな揺れと津波の恐怖にさいなまれた唯一の部員。中村監督から相談を受けた福森選手は、能登の現実を伝えることを決意した。

 「正直つらくて、あの時のことは話したくないし、頭の中からも消したいんです。でも、みんなには知ってもらいたかった。人ごとだと思って欲しくなかったから」

 涙をこらえながら、声を絞り出した。

 外に飛び出すと街の光景が一変していたこと。腰の骨が折れた祖母を背負って裸足のまま逃げたこと。夜明け前まで寒さと津波の恐怖に震えていたこと。せんべい1枚を10人で食べたこと――。

 冬休みに福岡へ帰省していた荒牧選手は思い知らされた。「テレビで実感していたと思っていたことが、実は違った。被災地の本当の姿を分かっていませんでした」

 全体ミーティング後の幹部ミーティングは、重苦しい空気に包まれた。

 「被災地の思いを背負った福森が、練習に取り組む姿勢や熱量が違うことが理解できた」と久々江選手。北岡選手は「被災した人の気持ちに寄り添い、自分たちは何ができるのか考えないといけない」とうつむいた。

 幹部ミーティングを終えた宝田選手は、ノートにこうつづった。

 思っていた以上に被災地はひどい世界になっていて、経験していない人には分からない感情があることを知った。福森はまず、ここに来るかの選択で苦しんでいた。苦しい思いをしている人の気持ちに寄り添い、共に戦っていきたい。

 幹部ミーティングの議論はやがて、全体ミーティングを活発な意見交換の場に変えていった。能登半島の現状を知り、能登のために自分たちが頑張る意義も話し合った。

 人間関係を恐れずに、自らの考えを言い合えるようになった副キャプテンたち。その姿に福森選手は確信した。

 「活発に話し合えるミーティングを重ねることで、チーム全体が同じ方向を向けるようになったと思います」

 選抜大会の選考委員会が開かれた1月26日。ライブ配信で校名が呼ばれると、部員の多くは静かに目頭を押さえていた。

 今春には、山梨から東京都青梅市へ再び拠点を移す。それでも能登に生きる人に寄り添い、共に戦う決意は変わらない。(斎藤孝則)