連載 怪物・江川卓伝〜銚子商との雨中の激闘(後編)前編:作新学院に4戦全敗の銚子商が「打倒・江川」に燃えた雨中決戦はこちら>> 銚子商業(千葉)のサードコーチャーを務めていたのは、6番・ファーストの岩井美樹。現在は国際武道大の監督を務め、江…

連載 怪物・江川卓伝〜銚子商との雨中の激闘(後編)

前編:作新学院に4戦全敗の銚子商が「打倒・江川」に燃えた雨中決戦はこちら>>

 銚子商業(千葉)のサードコーチャーを務めていたのは、6番・ファーストの岩井美樹。現在は国際武道大の監督を務め、江川卓とは高校時代から旧知の仲である。

 作新学院(栃木)と銚子商は72年秋の関東大会以来、1年間に4回も対戦したのでお互い顔見知りとなり、岩井と江川も仲良くなる。この試合でも江川が出塁すると冗談を言い合い、審判から「私語をつつしみなさい」と注意されたほどだ。



銚子商に敗れ、応援席にあいさつをする江川卓(写真左から二人目) photo by Kyodo News

【メジャーリーガーより速かった江川の球】

 その岩井が10回裏の攻撃を振り返る。

「銚子商はバッターから一番遠い打順の者が、サードコーチャーをするんです。10回の時も手を回しながら『ヘッド(頭からのスライディング)はダメだぞ!』と言ったんですが......。江川も含めて、スタンドの観客も全員サヨナラだと思ったんじゃないですか。今だから言えますが、江川にとっても10回で終わったほうがよかったかもしれませんね。でも神様が、江川をもう一度マウンドに立たせようと思ったのでしょう」

 岩井は投手のクセを見破るのが得意で、ベンチからもコーチャーズボックスからも投手の一挙手一投足を凝視した。じつは関東大会の時に、江川のクセを見つけていた。振りかぶる際、脇が開いている時はカーブ、閉まっている時はストレート。わかっていながら、それでも打てなかった。岩井が続ける。

「2006年に全日本の監督になって、キューバで開催された世界選手権でデビット・プライス(元レイズ)が101マイル(約162キロ)を投げたんですけど、ベンチで見る限り江川のほうが速かったですね。ただそれは、江川の高校1年と2年の時。高校3年は遅かったです」

 岩井が見たなかで、江川が一番速いボールを投げていたのが、高校1年秋の関東大会の前橋工業(群馬)戦と言う。10連続三振を奪うも、5回に頭部死球を喰らって降板したあの試合だ。

「大学の監督になってから、やはり江川みたいなボールを投げる投手を探し求めます。あの当時の江川と対戦し、のちに指導者になった人はみんなそうなんじゃないですかね。僕にとっては、江川が基準ですから」

 岩井は、江川のようなピッチャーはいまだ現れていないと断言する。あの球を一度でも見たものは、その剛球が頭から離れないのだろう。

【江川はもう限界に達していた】

 4番・キャッチャーの木川博史は、延長10回のシーンをしみじみと振り返る。

「この時は勝ったと思って、はめていたミットを放り投げてベンチを出ていったんです。そしたらアウトですよ。ミットは水たまりに沈んでしまって......二重のショックです。7回くらいから雨足が強くなって、バッターボックスに立っていてもヘルメットのひさしから水がポタポタと垂れてきて見づらいし、足場もグチャグチャ。大変でしたね」

 この延長10回の奇跡的なビッグプレーで、キャッチャーの亀岡(旧姓・小倉)偉民は、勝利を確信したと思ったという。

「アウトになった瞬間、この試合は勝ったと思いました。完全に流れはウチに来たと。ただ雨によって、江川本来のピッチングができなったことは間違いない。ロジンも雨に濡れてカチカチでしたし。キャッチャーの私がまともに返球できないのに、それでも江川は投げていました。『なんで投げられるのだろう?』と不思議でしょうがなかったですね」

 野球の神様は、この試合の決着を決めかねているかのように、ただただ大粒の雨を降らせていた。

 じつは、7回に雨足が強くなった時、監督の山本が控え投手の大橋康延に「つくっとけ!」と指示が出た。いつも7回あたりから自発的にブルペンに行って肩をつくっており、この試合もそろそろ投げにいこうと思っていた矢先の出来事だっただけに、不意をつかれた感じだった。

「普段は『つくっとけ』なんて言わないのに。ひょっとしたら......と思いました」

 夏の甲子園でもマウンドに立てると、一瞬、淡い希望を抱きかけたがすぐにかき消し、ブルペンに向かった。

「たしか『延長13回から行くぞ!』って言われた気がします。もう江川は限界に達していたんじゃないですかね。キレもなかったし、疲れもピークだったかもしれない」

【好きな球を投げてもいいか?】

 そして運命の延長12回裏、銚子商の攻撃。

 雨でボールが滑りやすいためか、先頭打者を四球で出し、その後、ライトフライ、センター前ヒット、四球で一死満塁となる。2番の長谷川泰之に対し、カウント2ボール2ストライクから高めに大きく外れてボール。ここで江川はタイムをかけ、内野陣を集めた。

「次の一球、好きな球を投げてもいいか?」

 チームメイトは、こんな頼りなさそうな江川の顔を見るのは初めてだった。

「ここまで来たのはおまえのおかげだから、好きなボールを投げろ!」

 反江川の急先鋒と言われていたファーストの鈴木秀男が言った。新チームになってから、マウンドに集まったのは後にも先にもこの一度きりだという。「よし!」と、江川の顔に精気がみなぎった。

 打者の長谷川は細身の小柄な選手で、3年夏前にレギュラーに抜擢された。1、2年は対戦相手の試合を偵察するのがおもな仕事だった。3年になると、1年生の篠塚利夫(現・和典)がすぐレギュラーとして起用されたため、控えの内野手としてプレー。しかし、ある日の練習で篠塚が骨折し、以来、長谷川がレギュラーに抜擢された。

 とにかく長谷川は1年の時から、誰よりも江川を見てきた自負がある。長谷川のなかには、高校1年、2年の時の江川が強烈に印象に残っており、その時と比べると高校3年は球威もスピードも格段に落ちていた。だからこそ「今の江川はたいしたことがない」と、長谷川は精神的に優位に立つことができた。

「これが最後だ!」

 江川が力いっぱい投げたこの日169球目の球は、大きく高めに外れた。

「ボール!」

 無情にも押し出しサヨナラという形で試合は決まった。

「終わった......」

 そう呟きながら、うしろのポケットに右手を入れながら、江川は静かにマウンドを下りた。

「ボールにはなりましたが、高校3年間のなかで最も悔いのない、最高のボールでした」

 江川が半世紀経った今でも、そうはっきりと述べる。

 雨に散った江川は、試合が終わった瞬間、悔しさよりも「あ〜終わったんだ」という気持ちになったと語る。それは満足感や安堵感とも違う、ただ試合が終わったんだという現実を受け止めた。

 試合後、作新ナインのなかで涙を流す者はほとんどいなかったが、ひとりだけで嗚咽しながら泣きじゃくる選手がいた。それが控え投手の大橋だった。そんな大橋の姿を見て、江川は申し訳ない気持ちでいっぱいだったと語る。

「春の甲子園で投げていますから、夏も投げたかったはずです。夏の暑さでバテて、僕の調子が悪かっただけに大橋は投げたかったでしょうね」

 江川は、不完全燃焼のまま高校野球を終えた控えの大橋を最後まで気遣った。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している