さらなる高みへ 「競泳をやめたいと思ったことは一度もない」。田中大寛(スポ4=大分・別府翔青)は自信を持って語った。2023年4月、田中は目標としていた世界選手権出場を決め歓喜の中にいた。しかしその裏では、突然の体調不良に悩まされ試練の日々…
さらなる高みへ
「競泳をやめたいと思ったことは一度もない」。田中大寛(スポ4=大分・別府翔青)は自信を持って語った。2023年4月、田中は目標としていた世界選手権出場を決め歓喜の中にいた。しかしその裏では、突然の体調不良に悩まされ試練の日々が待ち受けていた。早稲田大学で過ごした4年間の競技生活で東京五輪代表落選や世界選手権(世界水泳)出場、全日本学生選手権(インカレ)優勝など様々なことを経験した田中。「楽しいという言葉しか出てこない、とにかく濃い4年間だった」早稲田での競泳生活をこう表した田中の4年間を振り返る。
丁寧にインタビューに答える田中
田中が水泳を始めたきっかけはシンプルだった。「小学校1年生の時にプールの授業が楽しかったから」。当時は水遊び感覚でスイミングスクールに通い始めたというものの、小学校2年生の時に選手コースで本格的に練習を始める。「当時は泳げばベストだった」と振り返るようにその才能はみるみる開花した。その後地元の大分県立別府翔青高校に進学。大分県高等学校総合体育大会、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)などで着実に結果を残し、高校3年生のインターハイでは100m自由形で大会新記録を更新しての優勝を成し遂げた。その中でも田中が最も印象に残っているのは、高校3年生でインターハイのリレーの派遣標準記録を更新したレース。自身のインターハイ優勝などももちろん印象深い出来事だが、高校時代を共に過ごした仲間との夢の舞台が何よりも嬉しかった。
その後、候補がいくつかあった中でも実際に参加した体験練習が大きなきっかけとなり、早稲田大学への進学を決めた。しかし入学後待ち受けていたのはコロナ禍での学生生活。特に最初の1年間は、大学生活はおろか練習や大会などもなくなり思うような生活を送ることができなかった。そんな中、田中が大学2年生の時に東京五輪代表選手選考会を迎える。幼い頃から夢見ていた舞台への挑戦だったが、惜しくも代表を内定させることができなかった。それでも同期からの励ましを受け、世界水泳、3年後のパリ五輪を見据えた。それまでは前半を抑え後半で追い上げるというレースを展開していたが、それでは世界で通用しないと感じ前半から積極的に攻めるレースに切り替えた。新たなスタートを切った田中は、2023年ついに世界で戦う切符を掴む。2023年の日本選手権、200m自由形で自己ベストを更新し3位。世界水泳、アジア競技大会への出場を果たしたのだ。
念願だった世界選手権代表が決まり更なる練習に励む一方で、田中は体調の異変に悩まされていた。「代表を決める前に自分にストレスをかけていた部分があった。それが良い結果で終わったときにちょっと悪い方向にはじけてしまった」。自分の体への反動が大きく、泳ごうと思っても嗚咽や吐き気などのイップスのような状態が2,3ヶ月続いたという。ドクターストップがかかれば代表辞退という状況で練習ができない日々が続く中、田中は実家のある大分に帰省した。「ゼミの先生、家族、同期が励ましてくれて、なんとか気持ちをギリギリつないでいた期間だった」。ただ、実家に帰っても決して水泳のことが頭から離れることはなく、苦しい日々を過ごした。周囲の人々に助けられ、なんとか地元九州で行われる世界選手権の会場まで足を運んだ。迎えた4×200メートルフリーリレー。会場には地元大分の友人、自身の携帯には会場に来られなかった人々からの応援のメッセージで溢れた。「結果的には自分が足を引っ張るかたちになってしまったが、やるべきことは全てやった。悔いはない」。納得のいくタイムではなかったが、世界水泳という大舞台で泳いだことは間違いなく田中の大きな糧となった。
圧倒的な泳ぎを見せる田中
田中は4月から企業に就職し、社会人スイマーとして競泳生活を続ける。「水泳を本気でやらせてくれる環境を作ってくださっている。生半可な気持ちで続けていくと恩返しもできない。一つ一つの試合の結果をより深く求めていかないと」。今までよりも結果を出すことへの責任感は格段と大きくなると語る。
苦心の中でもなんとか泳ぎ切った世界選手権。田中は、レース後にリレーメンバーからこんな声をかけられた。「パリ五輪、また同じメンバーで泳ごう」。この言葉を胸に、パリ五輪のリレーメンバー内定を目指して田中は3月の代表選考会に挑む。「くよくよしている状況ではない、楽しむという気持ちで頑張りたい」。世界を経験した田中は心身ともに強くなった姿を選考会さらにはパリ五輪で見せてくれることだろう。
(取材、編集 大村谷芳、新井沙奈)