連載 怪物・江川卓伝〜控え投手・大橋康延の矜持(後編)前編:1年夏で「高校野球は終わった」と悟った江川卓の控え投手の記事はこちら>> 江川卓に大橋康延のことを聞くと、こう評した。「すばらしいピッチャーでしたよ。アンダースローから本当にいいボ…

連載 怪物・江川卓伝〜控え投手・大橋康延の矜持(後編)

前編:1年夏で「高校野球は終わった」と悟った江川卓の控え投手の記事はこちら>>

 江川卓に大橋康延のことを聞くと、こう評した。

「すばらしいピッチャーでしたよ。アンダースローから本当にいいボールを投げていました」

 高校時代の江川は、投げるたびに完全試合、ノーヒット・ノーラン、奪三振ショー......と快記録を連発した。時代の寵児として騒がれる傍ら、控え投手の大橋は何を思っていたのか。1年夏に「高校野球は終わった」と思ったと言うが、そこからどう気持ちを切り替えたのか。


投げるたびに次々と記録を打ち立てた作新学院時代の江川卓

 photo by Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images

【背番号1は絶対につけられない】

「(江川に)ケガでもない限り、オレは2番手だな。背番号1は絶対につけられない。だから大学、社会人を目指しました。その切り替えは早かったですよ。江川目当てにスカウトが来るじゃないですか。そうすると自分のアピールのために、ブルペンでは全力で投げていました」

 言葉は悪いが、江川をダシに自分の評価を上げようとした。そうでもしなければ、モチベーションを保てなかったのだろう。実力が明らかに違っていれば、野手転向という発想もあったかもしれない。しかし大橋は、プロから指名された投手である。もし他校に行っていれば、間違いなくエースになっていた逸材である。それほど投手としてのポテンシャルは、高いものを持っていた。

 しかし大橋が全力で投げる場所は、マウンドではなくブルペンだった。大橋はどんな試合でも7回くらいになるとブルペンに向かい、投球練習を始めた。試合展開などそっちのけで、一心不乱に腕を振る。まるで江川に対抗しているかのように、ただ黙々とミット目がけて投げ続けた。

「調整っていうよりも、レギュラーじゃないからいける時はいくって感じでやっていましたね。受けてくれるキャッチャーが『いい球きてるよ』って言ってくれても、ブルペンで投げるのと試合で投げるのとは違うじゃないですか。ただ僕が投げるのは僅差ではなく、小倉南戦のような大差のついた試合だけ。だから『打線頑張れ!』って思っても、全然打たないでしょ(笑)」

 センバツに出るまで調子のよかった打線が、甲子園に来てから急降下した。江川とほかの選手たちとの確執があり、それまで張り詰めていたものがプツンと切れ、各々が好き勝手にバッティングをし始めたことが原因と言われていた。

 ただ大橋にとっては、江川とナインの確執がどうこうよりも、どうすればマウンドに上がれるかが大事だった。ただ、その壁は極めて高かった。

「隣で江川が投げているのを見て、いつも『打てるわけがない』と思っていました。それくらい速かった。高校2年生の時なんて、プロよりも速かったんじゃないかな。僕はアンダースローだから速さに限界があったけど、何か魔球があったら江川に勝てるかもと考えたことはあります。夢の中ですけど(笑)」

 もはや正攻法では敵わないほど、江川の球は圧倒的で、次元の違いをまざまざと見せつけられた。それでも、また甲子園のマウンドに立ちたい......小倉南戦のあと、大橋はその思いだけで野球を続けていた。

【投げたら抑える自信はあった】

 現在、日本高校野球連盟(高野連)は投手のケガ防止のため、複数投手制を推進している。今やほとんどの学校が最低でも2人以上の投手を用意し、無理な連投をさせない傾向にある。

 だが、ひと昔前はエースが連戦連投し、チームのために腕が折れてもマウンドに上がるといった自己犠牲が美しいとされていた。江川のような絶対的なエースがいたら、控え投手が公式戦で投げることはほとんどない。

「自分が監督の立場だったら、やっぱり江川を使いますよ。2番手を使って負けたらって思うと......」

 大橋はそう語るが、はたして本心なのか。エースよりも明らかに調子がいいのに、投げる機会さえ与えてもらえない。勝利よりも、エースが投げることが最優先される。じつは最後の夏、大橋はそんな場面に遭遇することになる。

 夏の甲子園大会2回戦の銚子商(千葉)戦のことだ。初戦の柳川商(福岡)との試合を延長15回の末に勝利した作新だったが、誰の目から見ても江川はアップアップの状態だった。

「ブルペンで江川と一緒に投げていたんですが、なんか体が重そうだなという感じはありました。実際、ボールのキレもいつもよりなかったですし」

 試合前のブルペンから、大橋は江川の異変に気づいていた。

 ブルペンでいつも大橋の球を受けていた控え捕手の中田勝昭が証言する。

「高校3年の夏は、江川よりも大橋のほうが断然よかったです。一度、監督に『大橋のほうがいいです。ボールの伸びが全然違います』と言ったんです。すると監督から『そうは言っても、江川を使わないわけにはいかない』と返されまして......」

 当時、高校3年時に江川と対戦したことのある選手に聞いても、「明らかにスピードは落ちていた」と声を揃える。

 一方の大橋は、まるで江川の不調を見越していたかのように万全だった。

「調子はよかったですよ。投げたら抑える自信はありました。でもマウンドに上がれない。どうして使われなかったのかって? そりゃわからないです。監督に聞いてくださいよ(笑)」

 そう豪快に笑い飛ばすが、調子がいいのに投げられないのは、ピッチャーとしてこれほどつらいことはない。

「夏の甲子園で最後の試合となった銚子商戦は、すごく投げたかった。江川があんなに三塁走者をためたところなんて、見たことなかったですし」

【ほとんど打たれた記憶がない】

 公式戦で投げることはほとんどなかったが、遠征は大橋にとって絶好の登板機会だった。

 高校3年春のセンバツ準決勝で広島商に敗れたが、江川擁する作新の名は全国に轟き、おびただしい数の試合が申し込まれた。

 金曜日に学校を出発し、土日に試合をして、月曜日に帰ってくるというサイクルで、5月、6月の大事な夏の準備期間を遠征に明け暮れた。土曜日に1試合、日曜日に2試合の計3試合があるとすれば、土曜日、日曜日の第1試合は江川、日曜日の第2試合は大橋が先発する。

 遠征や練習試合が多ければ多いほど、投げる機会が増える、大橋にとっては願ってもないチャンスだった。内容も江川に負けず劣らずで、ほとんど点を取られていない。4月下旬に行なわれた銚子商との練習試合では、大橋は2試合目に投げて2対0で完封勝ちしている。

 今から50年ほど前のことだから、何を聞いても「覚えてないなぁ」の一点張りだったが、当時の資料を見せると目を覚ましたかのように声のトーンも一段階アップし、こう語った。

「けっこう抑えてんじゃん。だから、江川がいなかったらエースだって言われたりしたのかな」

 そして続けた。

「江川もすごいけど、私の防御率もすごかったんですよ。公式戦、練習試合を含めて、ほとんど打たれた記憶がないんですよ。自信はあったんです」

 あの当時、「江川に勝ちたい」と本気で思っていたのは、間違いなく大橋が一番だろう。

 1年夏に江川の完全試合を見て、一度は高校野球が終わった。だが、甲子園のマウンドに立ったことで再び目標が芽生え、「江川に負けたくない」というライバル心がメラメラと燃え上がった。最後の夏、「もう一度、甲子園のマウンドに立つ」という目標は叶わなかったが、「負けていない」と思えるほどの自信を得た。

 それだけに夏の甲子園2回戦の銚子商との試合は、大橋にとって別の意味で忘れられないものになった。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している