耐え忍んで この4年間を振り返る一言に「耐久」と挙げた片倉潤樹(法=早稲田佐賀)。チーフコックス兼副将となり、艇の舵だけでなく、チームも束ねる立場になった片倉の支え続けた4年間を振り返る。 片倉がボートを始めたのは中学生のころ。競技の物珍し…
耐え忍んで
この4年間を振り返る一言に「耐久」と挙げた片倉潤樹(法=早稲田佐賀)。チーフコックス兼副将となり、艇の舵だけでなく、チームも束ねる立場になった片倉の支え続けた4年間を振り返る。
片倉がボートを始めたのは中学生のころ。競技の物珍しさや競技人口の少なさから、「大会でも良い結果を出せるのではないか」という、「ちょっと半分やましい気持ちと、もう半分はちょっと好奇心とで」始めたという。高校生のころは大学生まで続けることになるとは思っていなかった。転機となったのは、自身のポジションを見つめ直したこと、一度中高6年間で鍛えた体を捨てて、漕ぎ手ではなく舵を切るコックスになったら、「自分ももしかしたら活躍できるんじゃないか」と考えたという。中高生のころは大会であまり結果を残すことができなかったが、早稲田大学の漕艇部なら、もっと上、日本一も目指せるのではないか、もう一度勝ちたいという思いもあった。
インカレで艇をスタート地点まで誘導する片倉
早稲田大学に入学する前は、「めちゃくちゃ厳しい」というイメージを抱いていた。世代別の代表といったレベルの高い選手が集まっており、レベルの違う部活と感じていたという。実際に入学して、ポジションがコックスに変わったことで、厳しいメニューを行うということはなくなった。しかし、少なくとも週11回、大会前には週15回にも及ぶ練習があり、スケジュールは厳しいものだったという。同じ寮生活とはいえ、高校時代とは全く別物であった。
入学早々、新型コロナウイルスが蔓延し、上京してすぐに一時帰宅となってしまう。しかし、zoomで部員と合同して筋トレをするなどして、どうにか部としての活動を行った。大会自体は、全日本選手権と全日本大学選手権(インカレ)の平衡開催など、イレギュラーな形ではあったが開催された。片倉は出場することはなく、デビュー戦は、2年生の4月、早慶レガッタとなった。隅田川というレース場の特殊性により、「半分別のスポーツみたい」と語る。そんな早慶レガッタがデビュー戦になったが、その分、早慶レガッタに向けた練習で「ワセダに染まれた」という。大学からコックスに転向してまだ分からないことが多い中で、先輩に𠮟られながら多くのことを教えてもらい、成長につながった。この早慶レガッタでは無事勝利を飾り、「生まれて初めて勝って涙が出た大会」だった。片倉にとって、早稲田大学漕艇部における、「原体験みたいな大会」であったという。
早慶レガッタの対校エイトで敗れ、悔しい表情の片倉
3年生になると、師匠のように慕っていたというコックスの先輩が卒業し、男子部員が多いこともあり、片倉がコックスの筆頭としてあらゆる仕事を回さなくてはいけなくなった。チーフコックスに就任する前ではあったが、就活が始まることも相まって忙しいまま3年生を駆け抜けた。4年生になると、正式にチーフコックスに就任し、合わせて副将にもなった。2つの役職の兼任は負担が大きいものに感じるが、「副賞兼チーフコックスになってからの方が、 部活の仕事自体は少し楽になった」と振り返る。責任自体は重くなったが、もう一人の副将である村岡浩旗(文構4=東京・早稲田)が副将としての仕事を多く負担してくれたという。チーフコックスに関しては、2年連続で実質的にチーフの仕事をしてきた中で、後輩への引継ぎという部分を重要視していた。片倉は「後輩が本当に良く育ってくれた」と振り返る。
インカレでラストスパートの声を掛ける片倉
日本ローイング協会(JRA)と書いてあるメダルが欲しかったと振り返る片倉。4年時には早慶レガッタで敗戦を、4年間早慶レガッタ無敗で終えることはできなかった。「個人的にはもっと高い結果が欲しかった」と振り返る片倉。しかし、結果ではなく、早稲田大学漕艇部に入らないと「体験できない苦しいことをたくさん経験できた」と感じているという。そんな片倉にとってこの4年間は「耐久」であった。前に出て引っ張っていくというより、仕事を淡々とこなすことに特化した。戸田の寮は「仕事場でもありつつ、 もちろん住む家」、「息抜きの場でもありつつ、全部詰まってるような気がする」と振り返る。競技は大学で引退するという片倉。中学生から10年間、ボートにかけたこの時間は、かけがえのない経験となり、これからの片倉の活躍を支えるだろう。
(記事、小島大典 写真 齋藤汰朗)