バレーボールが大好き 小さい頃から、小学校の昼休みにはサッカーやドッジボールに精を出す活発な少女だったという柴田羽乃香(商=東京)。そんな柴田のバレーボールとの出会いはお茶の水大学附属中学1年生の時のことだ。当時から「身長だけは高かった」と…
バレーボールが大好き
小さい頃から、小学校の昼休みにはサッカーやドッジボールに精を出す活発な少女だったという柴田羽乃香(商=東京)。そんな柴田のバレーボールとの出会いはお茶の水大学附属中学1年生の時のことだ。当時から「身長だけは高かった」という柴田。当時の女子バレーボール部顧問からの熱烈な勧誘を受け入部した。その後、他の部活から助っ人を借りて試合に出るような状況だったというが、顧問のバレーボールへの熱意もあり柴田はバレーボールにのめり込んでいく。尚、中高での公式戦勝利経験は一度もないという、どこかのバレーボール漫画の主人公の様だ。
早稲田大学商学部には一浪で入学した。その受験勉強の大きな原動力となったのもバレーボールだという。様々な大学の女子バレーボール部について調べるなかで、早稲田の女子バレーボール部に入部することを一番の望みとして早稲田へと入学した。
3年時にスタメンで活躍する柴田
入部後は自身の技術力に対して大きな不安があった。しかし、当時の女子バレーボール部の先輩は温かく迎え入れてくれた。入部後は中高との質的にも量的にも大きなギャップを感じたが、何よりも“同期がいること”それ自体が最高に嬉しかった。3年生になるとレギュラーに定着。中高ではセンターをやっていたが早稲田ではレフトを任された。そもそも、試合に出られると思って入部したわけではなかっただけに、試合に出場することでチームの力になれることが非常に嬉しく、より一層力も入った。
自身の一番の強みは“打たれ強さ”。厳しい練習を乗り越え迎えた最高学年。柴田は、この最後の1年間が4年間で最も苦しんだ1年間であったと振り返る。その幕開けから、異例の3年生主将・副将体制、柴田が主将になることはなかった。その決定過程には一言では表せない深い議論があった。その内容は到底うかがい知ることはできない。加えて、有力な新人が入部したこともあり、スタメンから外れることとなった。
柴田自身、その状況に対する葛藤や苦悩はあったものの、4年生としてひたむきに努力する姿を後輩たちに見せ続けた。下級生たちにも目を向け、かつて自身がしてもらったように下級生とのコミュニケーションを図り、縁の下でチームを支えていた。
秋には出場機会も増えた。どのような場面で投入されても自身が活躍貢献できるように、いつでも試合に出られる精神状態を作っていた。しかしながら、11月28日の全日本大学選手権、帝塚山学院大にはストレート負けを喫した。全ての部員にとって大きな悔しさが残った。主将の秋重若菜(スポ3=大阪・金蘭会)は試合後のインタビューで、4年生への感謝と申し訳なさを語っていた。
4年時の早慶戦でスパイクを打つ柴田
悔しい終幕も、4年間を振り返れば昨日のことのように覚えている試合が3つあったという。1つ目が3年の入れ替え戦。試合には負けたもののこれほど勝ちたかった試合は無かったという。2つ目が同じく3年生の時の春季リーグ戦(春季関東大学リーグ戦)。柴田は最後の点を決め試合に勝利し、柴田にとって「このためにバレー部に入ったんだ」と思った瞬間だった。3つ目が4年生の時の早慶戦。全員に出場機会が与えられ、チームが一つになるのを感じた。
自身の中学校以来10年間のバレーボール歴を振り返れば、特に大学での4年間、楽しいことばかりではなかった。しかし、それでも続けてこられたのは“バレーボールが大好き”だから。そして、早稲田の女子バレーボール部に受け入れてもらえた喜び、恩返ししたいという気持ちが大きかったから続けてこられたのだ。
柴田にとってバレーボールの魅力とは、「1人がミスしても誰かがカバーすればボールはつながる」1人ではできない、気持ちがつながっていなければできないスポーツであることだ。そして、柴田が繰り返し口にしたのは、チームメイト、先輩・後輩、周りの人への感謝、そして恩返しをしたいという気持ちだ。バレーボールは大学で終えるというが、そのガッツと強い気持ちでこれからも“柴田らしさ”を貫いてほしい。
(記事 帖佐梨帆 写真 五十嵐香音、星野有哉)