成長の場 「成長の場」ーー。田中天智龍(スポ=鹿児島南)が早大競走部で過ごした4年間を振り返って真っ先に浮かんだのはこの言葉だった。数々の試練を経験し、それを乗り越えるたびに「成長」してきた。一人のアスリートとしての競技力だけではなく、精神…

成長の場

 「成長の場」ーー。田中天智龍(スポ=鹿児島南)が早大競走部で過ごした4年間を振り返って真っ先に浮かんだのはこの言葉だった。数々の試練を経験し、それを乗り越えるたびに「成長」してきた。一人のアスリートとしての競技力だけではなく、精神的な面でも成長することができたという4年間の軌跡をたどる。

 礒繁雄総監督(昭58教卒=栃木・大田原)と野澤啓佑(平26スポ卒=現ミズノ)に声を掛けてもらったことをきっかけに進学した早大。しかし、入学後は試練の連続だった。故障を繰り返し、「ただ練習に行って時間を過ごして帰るだけ」の日々。やる気も湧いてこなかった。そんな時に礒総監督が掛けてくれた言葉がある。「何のために早稲田にきて陸上競技をしているのか」。今でも原点になっているというこの言葉の意味を考えることで、一人の競技者として成長することができたと語る。

 3年時も前半はケガとの戦いだったが、ここで「当たり前に走れることが幸せだと気づけた」。走ること自体が楽しくなったという田中は、復帰後、練習に主体的に取り組むようになる。すると、以降は破竹の勢いでトップランナーへと上り詰めた。8月の日体大競技会で初めて49秒台をマークすると、勢いそのままに9月の日本学生対校選手権(全カレ)で初優勝。その後、10月のアスレチックスチャレンジカップでは自己記録となる当時学生歴代11位となる49秒07をマークし、トップハードラーの仲間入り。「世界で戦いたい」という思いが芽生えた。

 


3年時の全カレで優勝を果たし、表紙式で笑顔を見せる田中

 さらなる飛躍を誓い迎えた学生ラストイヤー。109代目の主将としてエンジ戦士を率いることになった田中が立てた目標は「個人としては48秒50を切り、ブダペスト世界陸上出場、チームとしては全カレ総合優勝」。しかし、シーズンが幕を開けると、田中は苦しんでいた。優勝を狙った日本学生個人選手権と関東学生対校選手権では決勝の舞台にすら立てず、「言葉に表せないくらい悔しかった」。主将として結果を残さなければいけないというプレッシャーも感じ、「自分自身との戦いに勝てなかった」と振り返る。そんな時に支えになったのは苦楽を共にしてきた仲間や監督、コーチ陣の存在だった。一緒に悔し涙を流してくれた金井直障害コーチ(令2スポ卒=神奈川・橘)。気が張り詰めていた時にさりげなく手を差し伸べてくれ、結果でも鼓舞してくれた仲間。「自分に負けているようじゃだめだと思わせてくれた」。だからこそ最後の全カレには、「何としてでも決勝に残り、背中で見せる」と強い気持ちで挑んだ。予選でシーズンベストをマークすると、準決勝も着順で突破。1年間遠ざかっていた決勝の舞台に帰ってきた。結果は7位に終わり、2連覇を達成できなかった悔しさはもちろん残った。だがそれ以上に「自分との戦いに打ち勝てたこと」の達成感が上回り、「価値のある7位だった」。

 


4年時の関カレで、準決勝敗退に終わり悔しさを見せる田中

 振り返ればこの4年間は決して順風満帆ではなかった。ケガに苦しみ結果が出なかった下級生時、大きく飛躍した3年目、エンジの主将として全てを背負ったラストイヤー。「ジェットコースターのような競技生活だった」と振り返ったが、全てを経験したからこそ「僕はこの4年間で大きく成長することができた」。当たり前の支えに気づけたこと、常に結果を追求する姿勢、そして「並大抵の覚悟では背負うことができない」と語ったエンジのユニホームの重み。それと同時に、どんな時でも自分を導いてくれた大前祐介監督(平17人卒=東京・本郷)や仲間への感謝の思いも述べた。早大競走部で過ごした4年間は、その一瞬一瞬が田中にとってかけがえのない宝物だ。歩んできた一歩一歩が成長の糧となり、今の「田中天智龍」を創り上げてきたのだから。

 


4年時の全カレでハードルを跳ぶ田中

 卒業後も競技を続ける田中。エンジのユニホームには別れを告げ、パリ五輪、そして東京世界陸上の出場を目指して挑戦は続いていく。ハードルを越えたその先にある夢を信じてーー。

 

(記事 加藤志保、写真 戸祭華子、堀内まさみ)