日立Astemoリヴァーレ野中瑠衣 インタビュー前編 サイドアタッカーに日本人選手を起用し、日本代表に送り込む――。それがV.LEAGUE DIVISION1 WOMENの日立Astemoリヴァーレの身上だ。 昨年の日本代表メンバーには、第…

日立Astemoリヴァーレ

野中瑠衣 インタビュー前編

 サイドアタッカーに日本人選手を起用し、日本代表に送り込む――。それがV.LEAGUE DIVISION1 WOMENの日立Astemoリヴァーレの身上だ。

 昨年の日本代表メンバーには、第22回アジア女子選手権大会(第3位)に長内美和子とオクム大庭冬美ハウィが、第19回アジア競技大会(準優勝)に長内が選ばれた。そして、もうひとり。アジア女子選手権大会に臨むチームに"追加登録"という形で選出されたのが、野中瑠衣である。

 セッター対角でプレーし、日立Astemoにおける存在感を増す野中。仲間からは「パス(サーブレシーブ)も安定していますし、ストレート方向へのアタックで確実に得点してくれる」(長内)、「プレー面も頼もしいですし、プラスになる声がけをしてくれるので、私も前向きになれる」(オクム大庭)と信頼を寄せる。

 秋田北高校を卒業後、日立Astemoに入団して4季目の野中に、Ⅴリーガーになるまでの経緯や、日本代表に入った時の思いを聞いた。



Ⅴリーグ4季目、日立Astemoリヴァーレの野中

【大学進学か、Ⅴリーグ入りか】

――Vリーガーになって4季目。ここまでを振り返っていかがですか?

「本当にあっという間ですね。年齢的(22歳)にはチームの中でもまだ下のほうですし、経験も浅いですが、『もう4シーズン!?』という感覚です」

――V.LEAGUEでのデビュー戦は覚えていますか?

「入団1年目の開幕戦ですね。リリーフサーバーで入って、その1本目でサービスエースを決めました。ネットインで、最初は『ミスした!!』と思ったことを覚えています」

――振り返ると、高校を卒業してV.LEAGUEに進んだ矢先にコロナ禍がありました。

「V.LEAGUEがどんな世界なのか、想像もつかない中で始まりました。(コロナ禍は)大変でしたが、高校生活と比べると、毎日ひたすら練習できること自体はとても嬉しく感じていましたね。『もっともっと練習したい』という思いでいっぱいでした」

――コロナ禍中の"おうち時間"はトレーニングに明け暮れていたんですか?

「そんなことないですよ(笑)。あの頃は、韓国ドラマをよく観ていました」

――小さい頃からバレーボール選手になることが夢だったと聞いていますが、高校を卒業してからV.LEAGUEに進む経緯を教えていただけますか?

「実は、ずっと大学進学を考えていたんです。もちろんV.LEAGUEの道も考えていましたが、進学の第一志望は『筑波大学』と書いていました。当時、ふたつ上の兄が在学していたので安心でしたし、女子バレーボール部も"強いと言えば筑波大学"という印象があったので。それに、家系がみんな教員なので、教員免許を取ることも考えて大学に進もうと考えていました。

 ただ、リヴァーレは高校時代から合宿でもお世話になっていて、その頃から声をかけていただいていたので迷っていました。私に目をかけてくれた方々に社会人になってからも教えてもらいたい、という思いもあって......気持ちは大学進学と五分五分でしたね。

 そんな中、兄に『教師になりたいわけじゃないなら、大学に行く必要はないんじゃない?』と言われて、ハッとしました。将来のことを考えすぎて教員になる選択をしようとしていましたが、『私は今、バレーボールがうまくなりたい』と目標が明確になってからは、すぐにV.LEAGUEでプレーすることを決意したんです」

【バレーは「まったく知らなかった」】

――バレーボールと出会ったのは、地元・秋田の体育館「CNAアリーナ☆あきた」だったそうですね。

「そうですね。施設内のランニングコースを走っていた時に、コートで活動していたクラブチームから声をかけられたのがきっかけです。当時、バレーボールの存在はまったく知らなかったんです。体を動かすのは好きで、水泳を習ったり、両親の影響でバスケットボールをやったり、父もやっていた野球をやりたいとも考えていました。何をやろうか、迷っている時期でもありましたね。

 そんな時に声をかけてくださったのが、小学生のクラブチーム『秋田ブレイザーズジュニア』です。初めてバレーボールをやってみて、アンダーハンドやオーバーハンドのレシーブや、サーブを打たせてもらいました。空中のボールを触って、相手に返す。何より、バスケットボールと真逆で『下に落としたらダメ』という点が、とても楽しく感じたことを覚えています」

――当時、憧れた選手はいましたか?

「当時、日本代表で活躍していた木村沙織さんです。テレビの前で釘づけになっていました。最後に決めるのはエースの木村さんで、一番輝いて見えました。当時は、木村さんのプレーしか見ていなかったので、それが私にとっての教科書です。フォームも参考にしていたので、気づいたらそっくりになっていました(笑)」

――自分も「日本代表を目指したい」という気持ちになったんですか?

「小学6年生の時に全国小学生大会に出場し、東京体育館で試合をしていた際に日本バレーボール協会の関係者の方々に声をかけていただき、大会後に実施される『エリートアカデミーオーディション』に参加することになりました。そこで刺激を受けて、日本代表が"目指したいもの"になりました」

――中学3年時には、「JOCジュニアオリンピック全国都道府県対抗中学大会」でオリンピック有望選手に選ばれましたね。

「賞をいただいた時は驚きました。地元の秋田でノビノビとやっていたので。『賞に対して、まだまだ活躍が見合っていない』と感じていたので、もっともっと頑張らなければいけないというモチベーションになりました」

【アンダーカテゴリーの代表で石川真佑らとプレー】

――中学からユース女子日本代表(U-18)入りを果たし、国際大会も経験しています。

「アジアユース女子選手権大会は中国、(高校1年生時の)世界ユースはアルゼンチンでの開催でしたね。特にアルゼンチンは、現地に着くまでが長くて......。それに当時は、実家を離れる機会がなかったので、世界ユースでは何日かホームシックになっていました(笑)」

――当時のアンダーエイジカテゴリー日本代表には、石川真佑選手や山田二千華選手、中川つかさ選手ら、のちにA代表に入る選手が揃っていました。

「個性的な選手の集まりでした。候補合宿の時点で、全国の名だたる高校からメンバーが集まっていたので、私自身は孤独感といいますか、引け目を感じていました。ですが、最終メンバーに選ばれたことで、『少しは認められたのかな。仲間に入ることができたんだ』って。上手な選手たちと一緒にプレーできることが、何よりも刺激になりました」

――その上のカテゴリーであるジュニア日本代表(U-19、U-20)では、メンバー外で悔しい思いをされたと思います。

「もちろん悔しい気持ちでいっぱいでしたが、わりと冷静に受け止めていました。その時点の実力でいえば、私以外のメンバーのほうが世界で結果を残せることがわかっていましたから。一方で、『その選手たちに負けないぞ』という気持ちも湧き上がってきました。もし選ばれていたら、『今の力で大丈夫なんだ』と思ってしまっていたかもしれません」

――ジュニア日本代表の落選で、目標がブレることはなかったですか?

「日本代表になる、という思いは変わりませんでしたね。仲のいい同級生たちが選ばれていましたが、『自分は、自分』と胸に思いを秘めて励んでいました」

【日本代表に選ばれて「え、私でいいんですか?」】

――そして昨年夏、シニアの日本代表に呼ばれました。

「(日立Astemoの東京の練習拠点である)味の素ナショナルトレーニングセンターでバレーをするのが久しぶりでした。初めは、アジア選手権に向けた選考合宿のようなものがあって。代表に呼ばれた時は私自身が驚きましたが、すでに代表メンバーに登録されている選手もいたので、『とにかく頑張ろう』と思いました。

 後日、日立Astemoの会議室に(長内)美和子さんと(オクム大庭冬美)ハウィさんと一緒に呼ばれて、中谷宏大監督から代表メンバーに選ばれたことを告げられました。ふたりはすでに(シニア代表での)経験もあったし、『はい』とうなずいていましたけど、私は『え、私でいいんですか?』って(笑)。でも、ふたりとも『当たり前じゃん』『そりゃそうだよ』と微笑んでくれました。本当にありがたい機会なので、たくさんのことを勉強して、吸収しようと考えていました」

――ずっと夢だった、シニアの日本代表メンバーに入った時の気持ちは?

「アンダーエイジカテゴリーと違って、着用するユニフォームがシニアの、いわゆるA代表のデザイン。『これを私が着るんだ』と不思議な感覚になりましたね」

――そこで学べたことは?

「試合にも『二枚替え(セッターとその対角のアタッカーを同時に交代させる)』で出させていただきましたし、練習からでもさまざまなことを学べました。周りの選手やスタッフの方々も、少し練習しただけで私の癖を見抜いて、『こうしたほうがいい』とアドバイスをいただけた。そんなすごさを感じながら、とにかく私は思いきりやるだけでした」

――シニアも経験されて、今はどのように感じていますか?

「近づいたからこそ、私に足りないことがたくさん見えました。これまではイメージしかできなかった、そのステージに立っている選手のすごさを実感できて、リーグで対戦している時もプレーが違って見えた。そこで、『まだ私はこんなにできていないんだ』って。

 ですが、憧れていることに変わりはありません。たとえ笑われようが、無理だろうと思われたとしても、私にとって日本代表はこれからも目指す場所です」

(後編:野中瑠衣の高校時代は「反抗的だった」 それを変えた恩師の言葉とは?>>)

【プロフィール】
野中瑠衣(のなか・るい)

2001年8月3日生まれ、秋田県出身。日立Astemoリヴァーレ所属。177cmのアウトサイドヒッター。秋田県立秋田北高から2020年に日立リヴァーレ(当時)に入団。秋田市立泉中3年時、秋田北高1年時にU-18日本代表に選出される。昨年度は追加登録で日本代表入りを果たし、第22回アジア女子選手権大会に出場した。