日立Astemoリヴァーレ野中瑠衣 インタビュー後編(前編:ユース日本代表で石川真佑らと戦った野中瑠衣 夢のA代表入りに「え、私でいいの?」>>) アンダーカテゴリー日本代表を経験し、現在はV.LEAGUE DIVISION1 WOMENの…

日立Astemoリヴァーレ

野中瑠衣 インタビュー後編

(前編:ユース日本代表で石川真佑らと戦った野中瑠衣 夢のA代表入りに「え、私でいいの?」>>)

 アンダーカテゴリー日本代表を経験し、現在はV.LEAGUE DIVISION1 WOMENの日立Astemoリヴァーレでプレーする野中瑠衣。昨年11月には自身のルーツである「CNAアリーナ★あきた」に"凱旋"し、勝利を収めた。Ⅴリーガーになるまで過ごした地元・秋田での学生生活での葛藤、それを救ってくれた恩師への思いを明かした。



Ⅴリーグ4季目、日立Astemoリヴァーレの野中

【初の地元・秋田の試合で活躍】

――Ⅴリーグ4季目で自身の環境に変化などはありましたか?

「バレー以外のことですみませんが......最近、オフの日は自動車学校に通っています。たぶん、運転は得意です(笑)」

――他に、オフの日はどんなことをして過ごしていますか?

「仲のいいチームメイトと出かけたり、本当に何もない日は部屋にこもってドラマを観たりします。境紗里奈さんや雑賀恵斗と一緒なことが多く、(本拠地がある茨城・ひたちなか市の)海浜公園に行ったり、宇都宮に餃子を食べに行ったり......みんなが誘い出してくれます。

 私は無趣味なんですけど、最近は健康志向になっています。朝も時間があればヨガをしてみたり。チームのトレーナーがピラティスの資格を持っているので、やってみたいですね。あとは料理がうまくなりたいです」

――今の料理の腕前は?

「それが、失敗例しかなくて(笑)。以前、上坂瑠子さんと料理をした時に、私はハンバーグを作ろうとしたんです。材料をイチからそろえて、いざ調理して焼いている時に、瑠子さんから『瑠衣、これは使わないの?』と指摘されて。私、挽き肉以外の材料を使ってなかったんです。なので、挽き肉100パーセントのカチカチのハンバーグができてしまいました(笑)。いつか、リベンジを。ハンバーグを得意料理にしてみせます」

――プレー面では、昨年11月4日に「CNAアリーナ★あきた」で行なわれた久光スプリングス戦で、Ⅴリーガーになって初めて地元の秋田でプレーしましたね。野中選手も18得点をマークし、2セットダウンからの逆転勝利。喜びもひとしおだったのでは?

「本当に特別な時間でした。バレーボールと出会った体育館ですし、高校時代の全国大会の県予選もいつもあの場所。すごく"ホーム感"があります。内装が特殊なので、みんなは『やりづらい』と冗談交じりに言いますけど(笑)、私はとてもプレーしやすいです」

――その試合は、ご出身のクラブチーム「秋田ブレイザーズジュニア」の部員たちも観戦に訪れたそうですね。

「そうなんです。試合後のサインボールの投げ入れでは、チームの子たちを狙いました。二階席でけっこう遠かったんですけど、無事に届いてよかった。剛腕ぶり、見せちゃいました(笑)」

【「嫌な生徒だった」野中を変えた恩師の言葉】

――クラブチームを指導されているのは、1984年ロサンゼルス五輪銅メダリストの利部陽子さん。小学生時代に学んだことは?

「もし他のチームに入っていたら、今のような競技人生にはなっていなかったと思います。バレーボールの基礎を教えていただきましたし、そこで身についたディフェンスの基本が今のプレースタイルの礎になっています。礼儀やマナー、挨拶も学んだので、社会人になってからも活きていますね。あの頃の私は、怒られるとすぐ泣いちゃう子どもでした。振り返ると『あんなに泣かなくても』って思うぐらいです(笑)」

――バレー選手として育った地元での試合はいかがでしたか?

「リヴァーレに入団して間もなくコロナ禍になってしまい、秋田大会はリモートマッチになってしまって......2季目はケガがあり、3季目は試合に出られれず、Ⅴリーガーになってから地元の秋田でプレーする姿を見せたことがなかったので、とにかく悔しかったです。

 周囲からしたら『秋田で行なわれるリーグ戦の試合のひとつ』と思われるかもしれないけれど、私にとっては"秋田で試合がある"ことがチームを選ぶ際にも大きかった。たくさんの方々に支えられてきたので、だからこそ成長した姿を秋田のみなさんに見せたかったんです。4季目でやっと、自分がプレーして勝利を届けることができました」

――高校も地元の秋田北高校に進みましたが、県外の強豪校などに進むことを考えたことは?

「ありました。高校に進学する際に、県外の、それも全国大会で上位の成績を収める有力校に入りたい思いが強くて。かなり迷いましたが......『もう決めないといけない』という日の朝、起きてすぐに母に『北高に行く』と言いました。その時の素直な気持ちに従ったような感じです」

――そうして始まった高校生活で、選択を後悔したことはありませんでしたか?

「2年生になるまで、ずっと『転校したい』と口にしていました。環境や人間関係も含めて、『ここに来たかったわけじゃない』と思ったり......今振り返ると、すごく嫌な生徒だったと思います。めちゃくちゃ反抗的な態度をとっていましたし、『こんなはずじゃなかった』という目つきをしていたと思います」

――その思いはどのように変化したのですか?

「2年生の、何月かは覚えていないんですけど、体育館から教室に戻る時に顧問の戸嶋幸子先生と廊下で一緒になったんです。それで歩いていた時に、ふと先生が『自分で選んで、自分の足で瑠衣はここに来た。ここでどう生きるかは、瑠衣次第だよ』とおっしゃったんです。その言葉を受けて、私は『人のせいにしていたけど、選んだのは自分だ』と気づくことができて。変わったのはそこからですね」

【恩師からの力強いメッセージ】

――その戸嶋先生は昨年12月、45歳の若さで亡くなられました。闘病されていたのはご存じでしたか?

「知らなかったんです。先生は強い人なので、誰にも言わずに過ごしていたと聞いています。今でも信じられません」

――ご自身のSNSで、戸嶋先生からの直筆のメッセージとともに思いをつづっていましたね。「瑠衣へ チームに貢献せずに秋田の地を踏むな!! 欲と意思を持って仲間を生かすバレーを!!」というメッセージでしたが、いつのものですか?

「高校1年生の時にユース(U-18)日本代表としてユース世界選手権に参加して、アルゼンチンにいた時です。スタッフがそれぞれの選手に、親や各チームの指導者からのメッセージを用意してくれて。先生らしい芯の通った、力強い文字に勇気をもらいました」

――1年時の野中選手は自身の環境に葛藤していて、反抗的だったという話でしたが、当時の戸嶋先生との距離感はどうだったんですか?

「反抗的な選手を見捨てる先生ではありませんでした。私がひどい態度をとっても私を信じてくれていましたし、それが伝わってくる人。直筆メッセージの文字にも、先生の強さが表われていました」

――今後、先生にどんな活躍を報告できるようになりたいですか?

「報告かぁ、なんだろうな......。代表に入りました、こういう結果を残せました、ということでもいいですけど、先生は『結果だけがすべてではない』ということを大切にされる方だったので。『必ず結果を出せ』『絶対に日本代表に入れる』とは言わなかったんです。なので、元気に夢に向かっている姿を見守っていてほしいです」

――ご自身が目指す選手像とは?

「もちろん日本代表に入りたい思いはあります。でも、それだけではなく、チームに求められていることを遂行し、どんな形でもいいから『必要だ』と思ってもらえる存在になりたい。『瑠衣がいるから局面が変わった』『瑠衣がいないと何だか静かだな』という感じでしょうか。チームにとって不可欠なプレーヤーになりたいです。

 最近は、その人自身の経験値も含めて"深み"がある人がよく目に留まります。私を見た子どもたちや選手にとって記憶に残るような、深みのあるプレーヤーになれたらいいな、と思っています。まだまだ経験は浅いですが、いろんなことを積み重ねて、深みのある大人になりたいですね」

【プロフィール】
野中瑠衣(のなか・るい)

2001年8月3日生まれ、秋田県出身。日立Astemoリヴァーレ所属。177cmのアウトサイドヒッター。秋田県立秋田北高から2020年に日立リヴァーレ(当時)に入団。秋田市立泉中3年時、秋田北高1年時にU-18日本代表に選出される。昨年度は追加登録で日本代表入りを果たし、第22回アジア女子選手権大会に出場した。