連載 怪物・江川卓伝〜伝説の始まり(後編)前編:怪物伝説の始まり 入学直後に竹バットで柵越え連発はこちら>> 1972年(昭和47年)は、札幌でアジア初の冬季オリンピックが開催され、人々は"氷上の妖精"ジェネット・リンのキュートの笑顔に癒さ…
連載 怪物・江川卓伝〜伝説の始まり(後編)
前編:怪物伝説の始まり 入学直後に竹バットで柵越え連発はこちら>>
1972年(昭和47年)は、札幌でアジア初の冬季オリンピックが開催され、人々は"氷上の妖精"ジェネット・リンのキュートの笑顔に癒された一方、アメリカの施政下に置かれていた沖縄が27年ぶり日本復帰で感激と苦悩は入り交じった。
江川卓の高校2年夏の栃木県大会は、全国に「作新に江川あり」を知らしめた大会で、怪物伝説第2章の幕開けでもあった。
3試合連続ノーヒット・ノーラン(うち完全試合1)。4試合目も10回二死までノーヒット・ノーランも、延長11回でサヨラナ負け。公式戦36イニングス被安打0。奪三振62。江川伝説を紐解く時に、必ずこの高校2年の夏の化け物じみた記録は欠かせない。
数々の記録を打ち立てた高校時代の江川卓
photo by Shimotsuke Shimbun/Kyodo News Images
【公式戦2度目の完全試合】
7月21日、作新の初戦は大田原高校。この日の江川はさほど好調ではなく、ストライク、ボールがはっきりしていた。序盤は制球もあまり定まらず、ボールが先行し不安定な立ち上がり。それでも徐々にエンジンがかかり、終わってみれば1四球、13奪三振のノーヒット・ノーラン。準完全試合である。
この時、一塁ベースコーチャーにいた大田原高校2年の印南和則は、当時のことを詳細に話してくれた。
「あまりにも速いから一塁コーチャーズボックスから『おいピッチャー、スピード違反だ! 高校生がこんな速い球打てるわけないだろ! 逮捕する』って言うと、大田原ベンチが沸き、江川もニヤってしながらチラッとこっちを見ましたね。同学年でこんな速い球を投げるヤツがいるんだと思い知らされました」
大田原はもはやなす術がないといった感じだった。
7月23日、3回戦は石橋高校。1年前奇しくも同じ日に烏山高相手に栃木県史上初の完全試合を達成した日。江川はそんなことはまったく知らないし、気にもとめてなかった。
天候はいまにも雨が降り出しそうな曇り空。江川を一目見ようと、球場は朝から長打の列をなし、約15000人が集まった。今日もすごい記録を見せてくれるのではないかという過剰な期待と興奮が入り交じり、場内はプレーボールのコールをいまかいまかと待ちわびていた。雨が降り出したことで試合時間が遅れること約40分。ようやくプレーボールのコールがかかる。
威風堂々とした182センチの身体が投球動作に入る。左足が美しい弧を描くように舞い上がり、右足の踵は伸び上がる。モダンバレエのような躍動感溢れるダイナミックかつ華麗なフォームに観客は固唾を飲んで見入った。
「ストラ〜イク!」
渾身のストレートが、すさまじいスピンでキャッチャーミットを突き破らんかのように飛び込む。試合前に、監督から「いけるところまでいってみろ!」と言われたのが頭をよぎる。一球投げるごとに、監督の言葉が頭のなかでこだまする。エンジンをフルスロットルにする。
「ストラ〜イク、バッターアウト」
バッターが代わるごとに審判の三振コールが復唱され、4回を終わって9奪三振。いつにないハイペースである。
ただ内野にゴロが飛ぶたびに、守備の動きがぎこちない。
「おいおい? 大丈夫かな......」
いつもひょうひょうとしている江川でも内野陣の様子がおかしいことに気がついた。絶対打球を後ろにそらさないようにと身体全体で受け止める捕球体勢だ。
「ひょっとしたらみんな、完全試合を達成させようとしているのか。俺のために......」
いままでマウンド上で感じたことは、「孤独」の2文字しかなかった。小高いマウンドで、誰よりも目立ち、誰よりも孤独感を味わう場所だと認識してきた。それが今、初めて野手陣の気持ちが伝わった。「よし!」あらためて気合が入った。
それまでどれだけ三振をとろうと、どれだけノーヒット・ノーランをやろうと、孤独感を埋めることはできなかった。自分の力でやったんだという自尊心だけが大きくなっていく。喜びも自分ひとりで噛みしめていた。
前年秋の関東大会の前橋工業戦、5回途中デッドボールで退場し悔しかったものの、10連続三振という記録でどこかでちょっぴり満足していたもうひとりの自分がいたのもたしかだ。野球は9人でやるものだが、甲子園はひとりの力でも行ける。本気でそう思っていた。でも今は違う。雨に滴りながらふと思った。
7回に入り、小雨だったのが激しい雨に変わり試合が一時中断したが、再開後の江川は前半以上の力のこもった投球で三振の山を築く。そして9回も2者連続三振。最後のバッターも力のないショートフライでゲームセット。
3対0、公式戦二度目の完全試合達成。内野ゴロ6、内野フライ1、内野ファウルフライ2、外野フライ1、三振17の105球。昨年に続き二度目の快挙。だがこの完全試合の意味合いは一度目とは違う。江川は心の中で完全試合を達成した喜びより、なんだか晴れ晴れしいものを感じるのであった。
【3試合連続ノーヒット・ノーラン】
7月27日ブロック準決勝対栃木工業。現在、栃木市でスポーツ店を経営している当時栃木工業の捕手だった石川忠央は、この試合のことを今でも悔やんでいる。
「2回に絶好のチャンスがあったんです。四球と失策と送りバントで一死ランナー二、三塁になったんです。この時、監督が悔やんだのは、次の打者の初球にスクイズしようと思ったのが、この日は球が荒れていたから様子見しようとなったんです。それでツーストライクからスクイズサインが出て、うまく一塁側に転がって江川が捕りにきたんだけど、キャッチャーが『捕るな!』って言ってそのままファウルゾーンに切れていったんです。当時の県営球場は傾斜がきつくて、塁線上のバントはすぐ切れちゃうんですよ。キャッチャーが『捕るな』って言ってなかったら、三塁ランナーはすでにホームインしていたし、二塁ランナーもホーム寸前でしたから!」
昔のキャッチャー像そのままの風体の石川は熱がこもり、次第に高校球児の顔に変わっていく。
「初回の第1打席、初球ストレートが来たんです。二死とられているんで、一か八か思いきっていこうと、ちょっと左足を浮かし気味でタイミングバッチシで振ったんです。行ったぁ〜と思ったらバックネット裏に真後ろのファウル。そしたら、ボールとバットが擦れてプ〜ンと焦げ臭い匂いがするんです。野球をやってあとに先にもファウルで焦げ臭い匂いがしたのはあれが初めてです」
5番打者でセンターを守っていた梨本卓は、こう証言する。
「この試合、アウトコースに少しでも流れてくれれば打てると思ったんですが、そういうボールは全然来ず、勝負球はインコース高目です。このボールは最初から打てません。カウントをとる球はカーブだし、なかなか狙い球が絞れませんでした。思いきって開いて打とうとするもんなら、アウトコースにポッと逃げられちゃうし」
江川対策の練習として、投手にマウンドの3メートル前から投げさせる。どこの高校もこの江川対策は実践済みであったが、実際に対戦する江川の球とはまったく違うため効果がなかった。さらに江川のカーブに関してはお手上げ状態。日本のプロ野球界で、当時最高と言われた巨人の堀内恒夫のカーブに匹敵するというレベルにあったと言われ、対策しようがなかった。
とにかく、江川に対してはストレート狙い。それもベルトから上の球は全部捨てる。そうはいっても江川のストレートを弾き返すのは容易ではなかった。
試合は作新・江川、栃木工業・海老沼利光の息詰まる投げ合いで0対0のまま9回の裏、作新の攻撃。一死一、二塁。バッター江川を迎える。
「ひとつ下に江川と同じ小山中のヤツが外野の控えにいて、『江川さんはカーブに弱いから』と試合前教えてくれたんです」(石川)
初球カーブを要求し、ピッチャー海老沢も大きく頷く。セットポジションから速いモーションでアウトコースからインコースの膝元に落ちるブレーキ鋭いカーブを投げる。江川は左投手特有の食い込んでくるカーブを逆らわず、ライト前に流した。ライトは前進守備を敷いており、二塁走者は帰ることができないだろうと誰もが思った瞬間、二度ジャッグルした間に、ランナーは脱兎のごとく駆け抜けホームイン。サヨナラである。
「今でもあの試合は悔しいですよ。勝てる試合でしたから。3年間で一番甲子園に近かったですから」
石川も梨本もおよそ50年たった今でも、この悔しさは消えていない。
1対0、奪三振16、四球3のノーヒット・ノーランでサヨナラ殊勲打。江川ひとりで投げて打って勝った試合だった。
これで3試合連続ノーヒット・ノーラン。この試合から"作新江川"から"江川作新"とも呼ばれるようになった。
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している