初出場した長野パラリンピックから25年。世界で活躍する同世代は、自分ひとりだけになった。「不可能は可能性」という思いで競技を続ける、パラアスリートがいる。 2026年、ミラノ・コルティナダンペッツォ(イタリア)大会で8大会連続出場を目指す…

 初出場した長野パラリンピックから25年。世界で活躍する同世代は、自分ひとりだけになった。「不可能は可能性」という思いで競技を続ける、パラアスリートがいる。

 2026年、ミラノ・コルティナダンペッツォ(イタリア)大会で8大会連続出場を目指すクロスカントリースキーの新田佳浩さん(43・日立ソリューションズ)は、パラを取り巻く環境が激変したと感じている。

 10月25日、新田さんの姿は青森県野辺地町や隣の東北町にあった。雪のシーズンを前にした最後の陸上トレーニングのため、ナショナルチームの合宿に参加していた。パラリンピック出場を目指す立位の選手とガイドランナー、スタッフなど11人が参加。ローラースキーで約1.5キロの急な上り坂を連続5回上るスピード系の練習や、スキーのポールを持った持久走や縄跳びなどのフィジカルトレーニングをこなしていた。

 岡山県西粟倉村(にしあわくらそん)出身の新田さんは3歳の時、祖父が運転するコンバインに左腕を挟まれ、ひじから先を切断した。親のすすめもあって4歳でアルペンスキー、小学校3年生でクロスカントリースキーを始めた。

 パラリンピックを目指すきっかけは中学2年生の時に出場した全国大会だった。片腕の少年が出場していると知った当時の日本代表チームの荒井秀樹監督が、自宅までスカウトにきた。

 「障害者として育てていない」という理由で新田さんの父は反対した。だが、監督が持参した映像を見て、競技レベルの高さに心を動かされた新田さんは、自らの意思で日本代表合宿に参加するようになった。

 17歳だった1998年の長野大会でパラリンピック初出場を果たすと、2022年の北京大会まで7大会連続で出場。金3個、銀1個、銅1個のメダルを獲得、ワールドカップ(W杯)、世界選手権でも活躍を続けている。昨季はワールドカップで年間総合3位に入った。