12月26日、井上尚弥はマーロン・タパレス(フィリピン)とのスーパーバンタム級王座4団体統一戦(東京・有明アリーナ)を迎える。勝てば、世界でも史上2人目の2階級4団体統一王者となり、また新たな勲章が加わることになる。しかし、「怪物」にとって…

12月26日、井上尚弥はマーロン・タパレス(フィリピン)とのスーパーバンタム級王座4団体統一戦(東京・有明アリーナ)を迎える。勝てば、世界でも史上2人目の2階級4団体統一王者となり、また新たな勲章が加わることになる。しかし、「怪物」にとっては、今回もまた通過点にすぎない。三十路を迎えても、自身の中から自然と湧き上がる「拳闘道」へのあくなき探求心は変わることはない。むしろ、深まっている様子すら窺える。



強さに比例して柔らかい空気も醸し出す井上

【自然体が放つ大らかさ】

 颯爽とした"主役"の登場に、ジム内の空気は一瞬にして緊迫と高揚に包まれる。

「スパーリングする日」という私の取材希望を受け入れてくれた井上尚弥は、「もう、強引なんだからっ!」と茶目っ気たっぷりに言い放ち、「ウソうそ。冗談ですよ!」といたずらっ子のように笑った。

 直接のロングインタビューは1年数カ月ぶりのこととなる。だから、待ち構えていたこちらの何もかもが自然と強張っていたのだろう。その緊張感を受け取った彼の、硬さを和らげるためのさりげない優しさなのだと気づく。ゼロコンマ数秒の世界に君臨し、圧倒的に勝ち進む男の察知能力と反射神経にあらためて感服する。

 世界2団体王者同士による4団体統一戦。その決戦の日まで、ちょうどひと月を切った2023年11月27日のことである。

 取材者を気遣い、笑いかけ、トレーナーやジムメイトと談笑する。かつての同時期には考えられない姿。いや、そればかりか試合予定のない時期でも、一歩ジムに足を踏み入れた瞬間に、柔らかさは封印していたはずなのだ。

 かつて早朝のラントレーニングに始まる1日密着取材を試みたことがある。スポーツジムでフィジカルを鍛え、地元のラーメン店で昼食を摂り、自宅で弟・拓真、従兄の浩樹とともにスマホゲームに興じる。そこまでは普通のスポーツ選手、どこにでもいる20代の若者となんら変わらなかった。が、夕方に差しかかり、いざジムに向かう段になった際のスイッチの切り替わり方に驚愕した。

 余計な言葉を発さなくなるだけではない。きっと、臨むトレーニングについて、イメージを作り始めるのだろう。集中力の高ぶりが密閉された車中に充満し、ビリビリとした空気が伝わってきた。普通の青年から世界のトップアスリートへと変身する──貴重な瞬間を見た。

 だからこそ、現在の井上尚弥は信じられないほどの大らかさを纏っている。本人は「自然体でいるだけですよ」と一笑に付すが、内面の変化の表れであることは間違いない。

【スパーで見せた野獣性と冷静さ】

 太田光亮トレーナーにしっかり丁寧にバンデージを巻いてもらう30分弱。取材者の質問に真摯に耳を傾け、どんなに抽象的な物言いをも瞬時に解釈し、期待以上の彼なりのオリジナルの言葉を返してくる。真剣な眼差しから、さわやかな笑顔まで表情も実に豊か。そうして、するりとトレーニングに入っていく。かつてのように、スイッチが切り替わる音は聞こえない。

 いつ見ても美しいシャドーボクシングを経て、1週間前にメキシコから来日したクリスチャン・クルス(26歳=フェザー級。21勝11KO6敗)、ホセ・サラス・レイジェス(21歳=スーパーバンタム級。14勝10 KO無敗)と4ラウンドずつのスパーリングを開始する。

 元IBF世界フェザー級王者のクリストバルを父に持つクルスは、左構え右構えの両方をこなすスイッチボクサー。だが、仮想タパレスの役割があるためにサウスポーで通す。背格好も左右スイングから左ストレートを差し込むタイミング等、スタイルもタパレスにとてもよく似ている。尚弥の強打を浴びると、怯むどころかお返しとばかりに猛然と打つ。尚弥も敢えて足を止めて荒々しく打ちかかる。もの凄い打撃音と両者の息遣いが響き渡る。パンチばかりか体もぶつけ合い、密着させ、相手の隙を窺い合ってふたたび強打を振りかざし合う。

 試合では打たせず打つ完璧な姿しか披露しない"モンスター"。だが、その実、内面に脈々と熱く流れている野獣性が余すことなくさらけ出される。渾身のパワーをこめて左フック、右スイングをぶん回し、普段は決して見せないバランスの乱れも生じる。調整段階の中で、疲労が溜まっている時期ということも重なってのことだが、それにしても、ド迫力のスリリングな攻防だ。

 5ラウンド目から代わったレイジェスは、長身のボクサータイプだ。それまでは前傾姿勢で戦っていた尚弥も、一転してアップライトに構え直し、リズムを整えてフットワークを使う。リングを縦横無尽に動き回り、自らロープを背負ってレイジェスを誘い、左フック、右ショートのカウンターを叩き込む。そしてまた、軽快なステップワークを披露する。

 こうして心と体のバランスを整えて、クルスとの一戦との調合を図っているように思えた。

 大打撃戦モードから、テクニカルなやり取りに切り替える。言葉にしたり頭で考えたりすることは簡単だが、実際に体現するとなると、ことはそう単純に運ばない。技術戦から打ち合いへ──の流れは往々にしてあるが、その逆は滅多にできることではない。ボクサー、ボクシング経験者、"通"の方ならこの意味がおわかりだろう。かつての尚弥もこのモードチェンジはそうそうできなかった。けれど、現在の彼はこれを実にスムーズにこなす。ボクシングの「強さ」「巧さ」だけでない。完璧に自らの心をコントロールする術を心得ているからこそ、できる芸当だ。ここに井上尚弥の今の強さがある。

「タパレスは、足は止まっているけれど、ボディワークでかわす選手。距離が近いからといって強打を打っていったら......そこに落とし穴が待っているパターンがあるのかな、と。意外に小さなテクニックをたくさん持っている選手ですし。だから、今回(のポイント)はそこ、かなって思います。案外、技術戦になるかもしれません」

 自らの、そしてタパレスの心をも操り、「強さ」でも「巧さ」でも上回る──。今回もまた、"井上尚弥のボクシング"が全開となる予感しかない。


井上は、強さが増すほど内面の変化も見られる

 

「遠慮なく言ってもらっていいですよ!」】

 汗を絞り出すと同時にクールダウンを兼ねた長いロープスキッピングを終え、ストレッチしながらのインタビューを再開する。

 開口一番、「スパーの出来がどうだって、遠慮なく言ってもらっていいですよ!」とにこにこしながら取材者の顔を覗き込んでくる。ほんのわずか、"照れ"も入っているのだろうが、かつてはこんなことも考えられなかった。どんなときでも、ことボクシングに関しては完璧を求めていた。不本意な出来に悩み惑い、スパーリングを封印したことも4年ほど前にあったが、「こんな日もありますよ。でも、気持ち的に乱れることはないですね」と飄々とした表情で応える。

 相手だけでなく、観ている者全てに寸分の隙も見せたくない。それがたとえ練習(スパーリング)であっても、だった。

「だって、こっちがちょっと手心を加えているのに、『井上尚弥に善戦した』とか、若い選手なんかはすぐ言いふらすから。それすらも許せなかったんですよ(笑)」

 だから、対峙する相手が誰であれ、倒すどころか破壊しにいっていた。が、今は「本番にしっかりと照準を合わせているから」と全く意に介さない。

 以前のペースでは、パートナーをいくら用意しても足りなくなってしまう。だから、うまく緩急と強弱を使いこなし、生き永らえさせる。それによって、自身が備える多くの引き出しの開け閉めを自在に使いこなせるようになった。だから、試合はおろかスパーリングでも、バラエティに富んだ、オールラウンドな井上尚弥によりいっそうお目にかかれるようになった。そして──。

「前は、無理な体勢からでも打ちかかったりしてケガをする元になっていたんです。だからいちばんは、ケガをしないように、こういうスタイルに変えた、というのが理由です」

 調整段階において、完璧な姿を披露し続けることでなく、「突き指ひとつしたくない」という肉体面に比重を置いた。それをふまえた「完璧な調整」を目指し、「心と体のバランス」を常に整えておく。

【「あと2年延ばしていいですか?」】

 かつて彼は言った。

「完璧な調整をして負けたとしたら、『相手が強かった』って納得できる。でも、負けませんけど」と。

 そしていま、彼は言う。

「たとえ、試合で今日のスパーみたいな出来だったとしても、それでも勝たなければいけない」と。

 勝負師としての意地と矜持は一切ブレることがない。そして、「誰も辿り着けない領域まで行きたい」と宣言する。

 アジア初の世界王座4団体統一。世界戦20連勝、世界戦通算18KOはいずれも国内記録。試合をすれば、なんらかの記録が付いてくるという状態で、すでに日本人選手前人未踏の地を歩んでいるが、「それはあくまでも付いてきた結果」と受け流し、「まだまだこれからですよ」と、さも当然のように微笑む。

 では、彼は何を求めているのか。

「パワー、スピード、テクニック。全体的なレベルを0.1ずつ上げていくことです」

 かつての自分は本能と勢いで戦っていて、「練習したことが咄嗟に出る」ボクシングだったが、現在は「こうやりたい、ああやりたいとリング上で考えているとおりに動けるようになった」という。そのきっかけは、ノニト・ドネア(フィリピン)とのWBSS(ワールドボクシング・スーパーシリーズ)決勝(2019年11月7日)を経て。聖地ラスベガスに初登場となったジェイソン・マロニー(オーストラリア)との試合(2020年10月31日)からだという。

 その状態を彼は「試合が立体的に見えるようになった。試合中に見えているものがちょっと変わってきた」と表現した。

 以前は向かい合う者と共有する狭い領域を集中して見ていたが、全体像はおろか、その奥行きや、場合によっては自分を含めた両選手の位置取りを "俯瞰"できるようになった......ということかもしれない。

「だから、試合をするのが一段とおもしろくなりました」と嬉々として語る。

「ボクシングは35歳まで」と長らく言い続けてきた。けれど、大橋秀行会長はこう明かす。

「この前、尚弥から言ってきたんです。『会長、現役を続けるのをあと2年延ばしてもいいですか?』って」

 まだまだボクシングを堪能したい、し足りない。あと5年ではなく7年あれば、さらなる何かを掴める手応えを得た──そんな心境なのかもしれない。

「これだけのことをやってきて、それでもいまだにそんな心持ちでいられる。それこそ、誰も届かない境地ですよ」

 うれしい悲鳴を上げながら、大橋会長は、またもや舌を巻かされたのだと身震いしてみせた。

 純粋なる自然体で育まれる探求心。それが、井上尚弥が四半世紀続けてきた、いまだ継続し続ける「現在地」なのである。